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ACT4~後編
「遅いッ!」 ただ1人、浜辺に残って待ち続ける格好になったコーティカルテが、憤りもあらわにそう吐き捨てると、周りですでに準備を終わらせて待機していた神曲楽士数人がビクッと肩を震わせた。集まった神曲楽士は、浜辺を運営している会社と契約して、たまたま今日浜辺に来て仕事をしていた全員である。ある意味、運が悪いと言わざるをえない彼らであったが、しかし同時に、神曲楽士としては貴重で幸運な場面にいるといえた。 コーティカルテ・アパ・ラグランジェス。 少なくとも、上級精霊を遥かに上回る存在と出会えることは、神曲楽士でなくとも貴重なことなのである。ただし、その対象の怒りのボルテージはすでに限界値を超えているらしく、その意味ではやはりこの場にいる神曲楽士は不運としか言いようがなかったのだが。 「遅いッ!」 そしてまた、先程から数分も経っていないのにもかかわらず、同じ台詞を、少しだけ怒りを上乗せさせた声でコーティカルテは吐き捨てたのであった。しかし、実際のところ、双子がフォロンを追いかけて浜辺を去ってから、まだ10分かそこらしか経っていないのである。たかが10分、されど10分。双子たちがフォロンを捕まえて戻ってくるには圧倒的に時間が足りないし、そうはいっても原油を積んだタンカーは刻一刻とその巨大な姿を誇示するかのように迫ってきているのであった。この光景を見れば、コーティカルテでなくても焦りたくなるというものである。 そして、ついに双子は戻ることなく、フォロンもいない状態でタイムリミットを迎えたのである。 すでにタンカーは、遊泳禁止ラインとなっている場所の手前にまで迫っていた。一切速度を落とすことなく近付いてくるそれは、間近になって一層の迫力を見る者に与えていた。まだ遠くにその姿が見えたときと比べて、タンカーが近付いてくる速度は圧倒的に速く思える。実際、今のタンカーのスピードなら、浜辺に到達するのに数分と掛からないであろう。もはや、フォロンの到着を待つ余裕はなく、タンカーを止めなければならない状況であった。 「仕方ない……か」 溜息一つ、コーティカルテは作戦を開始すべく行動を開始した。 「では、予定通りに……準備はいいな!」 コーティカルテが確認するように振り返れば、すでに単身楽団を展開していた神曲楽士数名が、頷いて肯定の意を返す。それを受けて、コーティカルテは不敵な笑みを浮かべると、颯爽と身を翻して海へと向かっていった。そうして海へと向かった足は、だがしかし、海の中にはない。なぜなら、コーティカルテの足は空を捉え、宙を走っていたからである。まるで物理法則を無視したその動きは、精霊ならば当然のことである。そして、やや遅れて神曲が響き始め、コーティカルテに続くように数柱の精霊が現われ、同じように宙を走っていく。 「段取りは分かっているな!」 タンカーを止めるために、それを浜辺近くでやろうとするのは無謀である。なぜなら、タンカーの質量が大きすぎるからである。たとえ精霊という存在が、物理法則を無視し、人間とは比べられない力を持っていたとしても、出来ることに限界はあるのである。もちろん、コーティカルテのような上級精霊ともなれば、その限界は遥か彼方といえなくもない。ただ、今のコーティカルテには、フォロンの奏でる神曲の支援はない。そして、神曲による支援が得られなければ、コーティカルテはその力の数パーセントしか発揮できないのであった。 それが神曲であり、それが精霊契約をしたということなのである。 フォロンがこの場にいて、神曲を奏でることができていれば、また別の方法を取れたかもしれない。それでも、タンカーが浜辺に近ければ近いほど色々と問題が発生してしまうため、やはり、浜辺から離れざるを得ないのだが。 浜辺からの見ると、あっという間に点になりつつある精霊たちは、もうタンカーの射程圏内に突入しつつあった。それはつまり、タンカーに占拠している精霊からの攻撃を意味する。 「――――来るぞっ!」 そう言ってコーティカルテが体を僅かに横にずらす。その次の瞬間、先程までコーティカルテがいた射線上が爆ぜる。激しく水飛沫が上がるが、すでにコーティカルテは前へと歩を進めている。 ――精霊雷である。 精霊雷とは、精霊が使うことのできる高エネルギーの総称である。これまでの研究により、精霊は人のように肉体という器を持たない代わりに、いわば精神エネルギー体というべき存在だということが分かっていた。このことにより、普通は精霊が人の目に触れるということはないのである。しかし、主に中級以上の精霊になると、そのエネルギーを物質化することで人が触れることが出来る存在に自らを変えることが出来るのである。下級精霊はその持つエネルギーが低く、安定性に欠けるため普段実体化することはないが、神曲による援護があればそれも可能となる。ともかく、精霊は自らの存在そのものであるエネルギーを、まるで雷のように発生させて使うことができるのである。当然のことだが、補給することなくエネルギーを消費すればエネルギーはいずれ尽きることになる。それは即ち、精霊にとっての死――消滅という結果になる。 「あア、アアあ、あぁアアアアーーーーっっ!」 タンカーに近付いたことで、そこを占拠している精霊が上げる雄叫びが、コーティカルテの耳にも届くようになっていた。その間にも、無数の精霊雷がコーティカルテを始めとする精霊たちに向かって放たれていた。しかし、その照準はほとんど出鱈目で、コーティカルテらは避けることなくタンカーに近付くことが出来た。ここまでは、ほぼ当初の作戦通りになっていた。 「……やはり、遠いか」 僅か一瞬だけ背後を盗み見たコーティカルテは、浜辺までの距離を見てそう呟く。それは作戦の支障になることではなかったのだが、しかし、コーティカルテの表情は少しだけ苦々しげになる。 「では、行くぞ!」 そして、そんな迷いを振り切るようにして、コーティカルテは目前にそびえる巨大なタンカーに向かって再び跳躍した。すると、コーティカルテと漆黒のボディーのタンカーは目と鼻の先に迫ることになる。また、近付いたことで照準が合ったのか、コーティカルテに向かって精霊雷が放たれた。 「は――っ!」 しかし、コーティカルテの気合の声と同時に手刀が放たれ、それは軌道を逸れて海面へと激突した。たちまち激しい水飛沫が上がる。そして、コーティカルテがニヤリと笑みを浮かべるその視線の先、そこに1柱の精霊がいた。我を見失い、自らの肉体を削りながらも暴れる、今のタンカーの主であった。 「悪いが――止めるぞ」 そう言って、コーティカルテはタンカーの前に手を突き出すと、それを止めるために力を発生させる。それは、直接止めるには相手が大きすぎるための方法である。そして、コーティカルテの形成した力場にタンカーは突っ込み、そのまま速度を落とし始める。 しかし、そのまますんなり物事が運ぶはずもなく。コーティカルテの声が暴走している精霊の耳に届いたのかは定かではないが、暴走している精霊はその瞬間、コーティカルテを確かな敵と認識したようであった。 「ァアっ、ああぁアあぁァっ!!」 次の瞬間には、ただ闇雲に精霊雷が放たれていた。しかも、その数が半端ではないため、すべてとはいわなくとも半分近くはコーティカルテを直撃するコースであった。もちろん、普段のコーティカルテであれば、それぐらい難なく切り抜けたのかもしれない。しかし、タンカーを止めるべく力を使っている今のコーティカルテに、その精霊雷に対処できるほど余裕はなかった。 いや、方法はあった。現在発生させている力を防御に回せば、防ぐことは可能であっただろう。しかし、コーティカルテにその方法をとることはできない。なぜなら、一度そうやって防いでしまえば、暴走する精霊はそれこそ力尽きるまでコーティカルテを攻撃し続けることになるからである。そんなことになれば、タンカーのスピードは当然落ちることはない。そして最悪、浜辺にまで到達する可能性だって決して低くはなかったからである。 つまり、タンカーを止めることが必須条件である以上、コーティカルテはタンカーを止めるために力を使い続けなければならないのだ。そして、そのために他の精霊を連れてきたのである。 閃光、閃光、爆発、そして噴煙が上がり、外れた精霊雷が海面を激しく波立たせる中、コーティカルテは無傷の体勢でタンカーを止めようとしていた。これは別に、暴走する精霊の精霊雷の威力が弱いわけでも、コーティカルテの防御力が高かったわけでもない。コーティカルテが無傷で済んだのは、彼女を守るように複数の精霊が立ち塞がっていたからである。 コーティカルテがタンカーを止めている間、彼女の身を守ること。 それが、コーティカルテと一緒に浜辺を飛び立った精霊に与えられた役目であった。そして、精霊雷を弾かれた暴走する精霊は、コーティカルテを守るように現われた精霊たちに敵意を剥き出しにし、再び烈火のような精霊雷の雨を降らせる。 「ぬ――!? 加減が……」 その嵐の中にあって、コーティカルテは神経を集中させていた。そうしなければ、目の前に形成されている力場はコントロールを失い、確実にタンカーを破壊してしまうと分かっていたからである。元々、コーティカルテはこういった細かい作業が得意なタイプではない、しかしタンカーを短時間で止めるためにはコーティカルテのその強大な力が不可欠であった。ただし、その強大過ぎる力は、当然ながら細かい調節などを期待することはできない。たとえば、ちょっと集中を途切れさせてしまっただけでも、タンカーを破壊することだってコーティカルテの力なら可能であったのだ。 精霊たちに守られながら、コーティカルテは強すぎず、かといって弱くならないように力場を調節しながらタンカーのスピードを徐々に落とし始めていた。 「おぉ――!」 その様子を浜辺で見ていた神曲楽士たちは、タンカーの速度が目に見えて遅くなったのを見て、歓声を上げた。しかし、歓声を上げつつも、彼らが奏でる神曲の演奏は止まることはない。なぜなら、その神曲が彼らの使役している精霊の力となり、引いてはタンカーを止めようとしているコーティカルテを守る力となっているからである。 ただ、そこに油断や慢心がなかったとは決して言えない。なぜなら、ここまではコーティカルテが事前に立てた作戦通りの展開になっていたからであり、それはつまり、無事にタンカーを止められるということであったからである。そこに、安心が生まれたとしても、不思議ではない。しかし、その微妙な変化は、奏でられる神曲にも僅かな影響を与えていた。その僅かな影響は、だがしかし、次第に大きな歪みとなって海の向こうの精霊へと伝わってしまうものである。 そして、それは当然のように結果として現われる。 それまで、単に精霊雷を打ち続けるだけだった暴走する精霊が、それを止めて跳躍する。その跳躍する先には、1柱の精霊がコーティカルテを守るように佇んでいる。が、その突然のことに、その精霊はなす術を持たない。本来なら指示を与えてくれるはずの神曲楽士は、離れた浜辺で演奏をしている。それも、どこか気の抜けるような演奏をである。 「ウアぁああアーーーーーッッ!」 暴走する精霊は、その拳をもって一撃を精霊に与える。それは、精霊雷による攻撃が無意味であると悟ったゆえの短絡的な行動であったが、この場合それを暴走する精霊にとって有利に働いた。暴走してるため、消耗し続けている精霊とはいえ、しかしその位は4枚羽――つまり中級精霊――であった。対して、コーティカルテを守るように展開している精霊たちは全てが下級精霊であり、単純に1対1の実力差で言えば、暴走する精霊の方が勝っていたのである。もちろん、神曲による援護があるため、下級の精霊でも、援護のない中級と対等以上の勝負ができないことはない。だが、先程の神曲楽士の気の緩みが、今この場における支配権を暴走する精霊の方に与えてしまっていた。 そして、直撃を喰らった精霊は、あっけなくその身を海中に沈めることになる。そうすれば、コーティカルテを守るように展開されていた布陣に穴が生まれることになる。神曲による援護と集合体による防御をすることで、暴走する精霊の攻撃を防いでいた精霊たちの間に動揺が走る。 しかし、その動揺が浜辺に伝わることはない。 無理もない。かなり近付いてきてるとはいえ、かなりの距離があるのである。肉眼で米粒よりもやや大きいぐらいにしか見えないその姿を、正確に捉えるだけでも難しいのに、その上その詳細を把握しようとするのは不可能といっていい。だからこそ、浜辺で神曲を奏で続ける神曲楽士は、海上で何が起きているのかまったく分かっていなかったし、まだ事態が好転しているものと思っていたのであった。 「くぅ……神曲、が」 目の前に展開する力場の調整に全力を傾けながらも、その本能的な部分でコーティカルテは神曲の変化を感じていた。しかし、それは仕方のないことである。コーティカルテも、そのことはある程度予想できていたことであった。が、自分を守ってくれていた1柱の精霊が海に叩き込まれたことまでは、さすがに予想できなかった。これまで防衛線を作っていたその一角が崩れたことで、そこから暴走する精霊はコーティカルテを攻撃しようと精霊雷を放つ。しかし、無防備なコーティカルテに精霊雷が突き刺さる前に、体勢を立て直そうとした精霊の1柱が立ち塞がりそれを弾く。弾かれた精霊雷は、綺麗な尾を引きながら海中へと突き刺さり、派手な水飛沫が上がる。その次の瞬間、暴走する精霊はその精霊の真横にまで移動しており、渾身の一撃を放つ。そうして、そのままコーティカルテを守った精霊は海の中へと消えていく。 コーティカルテを守る精霊はあと2柱。 「――散れッ!!」 コーティカルテは即座にそう判断し、そして叫ぶ。それだけで、2柱の精霊はコーティカルテを守る布陣を崩して、自由に動き回る。当然のように、コーティカルテは完全な無防備となり、暴走する精霊は好機とばかりに精霊雷を放とうとした。そして、コーティカルテに向かって放とうとするその瞬間、暴走する精霊は突然体が引っ張られる衝撃を受ける。そのまま精霊雷は放たれるが、照準がズレたその攻撃はコーティカルテに当たることなく、空へと消えていく。弾かれたように下を見た暴走する精霊は、今度は上からの衝撃を受けてそのまま体を半回転させてしまう。そうして、上下が逆になった状態で上を見上げるような格好となった暴走する精霊は、そこに1柱の精霊がいるのをはっきりと捉えた。捉えて、目障りな蝿を落とすぐらいの動作で精霊雷を放とうとするが、さらに背後からの衝撃を受けて、それをすることは叶わない。 「あア、アアぁあア!!」 暴走してるがゆえに状況の正確な把握ができていない精霊の弱点を突くような動きで、2柱の精霊は暴走する精霊の注意を引くことに成功していた。それが僅かな時間稼ぎであったとしても、コーティカルテはその僅かな時間を欲した。なぜなら、今このタンカーを止めようとするなら、タンカーに直接乗り込んでエンジンを停止する必要があったからである。そのためには、暴走する精霊を完全に抑えることが必須となる。そうしなければ、タンカーに直接の被害が出る可能性があるからである。だからこそ、これまで精霊たちは攻撃することを避け、防御を優先してきたのである。しかし、そのハンデは相手に有利に働くだけで、コーティカルテたちには一切味方しない。 コーティカルテは、まずタンカーの速度を事実上0にすることを目的としていた。 そして、その目的はもう少しで達成できるところまできていた。多少の蛇行をしつつも、タンカーはその巨体を進めることが叶わない。ある程度速度が落ちてしまえば、あとはコーティカルテが押さえつけるだけだったからだ。もちろん、エンジンは停止していないため、それは見かけ上のことに過ぎない。だが、一度停止してしまえば、再び加速するには時間が掛かるものである。つまり、いくつかの誤算はあったものの、コーティカルテたちの思惑通りに事は進んでいたといえる。 が、それもここまでであった。暴走する精霊の注意を引き付けていた2柱の精霊は、その奮闘虚しく、1柱は海の中へ、もう1柱は精霊雷の直撃を受けて、戦線を離脱してしまう。そして、当然のようにその場に残ったコーティカルテを邪魔者と認識すると、暴走する精霊は容赦なく攻撃を開始したのであった。 「くぅっ……致し方あるまい」 コーティカルテは、これまでタンカーを押さえつけていた力場をいったん消滅させると、今度は自分に向かって放たれていた精霊雷を打ち消すように力場を再展開する。次の瞬間、コーティカルテの展開した力場に精霊雷が衝突し、大爆発を起こす。もうもうと煙が上がり、一瞬にして強烈な風が発生するが、コーティカルテはもちろんタンカーにも傷がついた様子は一切ない。 しかし、押さえつけるものを失ったタンカーは、再び浜辺を目指して加速する。 それと同時に、浜辺で演奏を続けていた神曲楽士にも、ようやく危機感が伝わることとなる。だが、そのときすでに彼らの契約精霊は戦闘不能状態にあり、どうすることもできない状況に陥っていた。 そして、暴走する精霊は、ただ目の前の邪魔者を排除するように精霊雷を打ち続ける。そこには戦い方といったものは一切存在しない。ただ、精霊の気の赴くままに攻撃が繰り出されていた。 「やっかいな……!」 そう言って、コーティカルテは闇雲に放たれる精霊雷と防ぐための力場を展開する。普通なら、こんな面倒なことをする必要はない。ただ、己に襲い掛かるのだけを弾けばよかったのである。しかし、今のコーティカルテは、タンカーを背にしていたのである。その大きさだけでいうなら、コーティカルテなど豆粒程度の大きさしかないのである。つまり、コーティカルテに命中しない精霊雷は、すべてその黒塗りの巨体に吸い込まれてしまうわけである。結果、コーティカルテは、その背に抱える荷物の防ぐだけの力場を展開せねばならなくなっていた。 「コーティ!」 だが、そんな状況に光明が射したのはその時だった。コーティカルテの専属楽士であるフォロンが、ペルセルテを伴って浜辺に到着したのである。いや、この場合であれは、ペルセルテに連れられて、といったほうが正しいのかもしれない。何故なら、フォロンはペルセルテの運転するバイクの後部座席に座っていたからである。ペルセルテの運転技術は、フォロンのそれより上であり、浜辺に到着したバイクは唸りをあげながらも、綺麗に停止した。 フォロン専用のバイクである、ハーメルンのすぐ傍に。 飛び降りるようにフォロンは自分の愛機であるハーメルンに乗り込むと、そのまますぐにハーメルンを演奏用に展開させる。 「急げ――!」 距離があり届くはずのない声が、しかし、確かにフォロンには聞こえた気がした。いつものように、否――いつもより早く、ハーメルンの展開を終えると、その最初の1音を叩きつけるように弾き出す。 ポーン、と甲高い音が響いたかと思うと、すぐさま次の音が紡がれ始める。それはすぐに音の洪水となり、遥か彼方で戦う彼女へと届くべく波となる。 「――――待ちわびたッッ!!」 コーティカルテにその音色が届くと同時に、その体が真紅の本流に飲み込まれる。しかし、次の瞬間には、何事もなかったかのような姿で彼女はいた。彼女――コーティカルテ・アパ・ラグランジェス、という1柱の精霊が、その本来の姿を取り戻していたのだ。大人の体、妖艶な服装、そして圧倒的な存在感。そこに、コーティカルテが存在していた。 それだけで―――― 「ア、ああアアアぁァあ!!?」 目を見開き、口を大きく歪ませ、暴走する精霊は怯んだのである。暴走していたとしても、いや、暴走していたからこそ彼女は本能に忠実に従った。つまり、 この女は危険であると。 当然、あれほど激しかった攻撃はすでに止んでおり、コーティカルテは手持無沙汰になってしまう。相手に攻撃しようとする意志がなければ、もはや暴走する精霊はコーティカルテの眼中には入らない。あるのは、このタンカーを止めるだけということである。 「お前は……」 が、目の前の精霊が、そう簡単にタンカーを止めさせてくれるかが問題であった。だからこそ、コーティカルテはその精霊に語りかける。暴走している状態の精霊に向かって。 「お前は、何故タンカーを動かしていたのだ?」 ビクッ、と精霊の肩が震える。それはまるで、悪戯を見つかった子供のような反応である。こういうと、コーティカルテは母親的な立場になるのだが、実際それは大筋のところ間違っていない。 「ワタシ、ハ――」 「――いつまで、そうやってるつもりだ?」 「――――ッッ!!?」 カタコトながら何かを伝えようとする精霊を、コーティカルテが一蹴する。そうしてから、考えるのは面倒とばかりに妖しげな笑みを浮かべる。 「まぁ、私にはどうでもいいことだ。――――止めるぞ、いいな?」 疑問系でありつつ、その言葉には一切の反論を許さない。それでも、暴走する精霊は、腕を伸ばしかけて、いったん止めて、けれど何かを決意したかのように再び手を伸ばす。 「駄目、です……っ!!」 今度は、流暢に。 「私は、私は――あの人の無念を晴らすために、あれを止められるわけにはいかないのです!!」 「……どうしてもか?」 コーティカルテが語りかける。今度は優しげに。しかし、その言葉を受け取る表情に宿るのは喜悦の感情。 「もう、私に自我は必要ない」 「なら――もう、何も言うまい」 そう言ってコーティカルテが拳を握り締めるのと、暴走する精霊が雄叫びを上げるのは同時。そしてその直後、弾かれたように2柱の精霊は激突する。 「悪いが、手加減はできんぞ!」 「ああアァ、アアあーーーーッッ!!」 暴走する精霊が連続して繰り出す攻撃を、コーティカルテは軽くいなす。暴走する精霊は2対、対するコーティカルテは3対の羽を展開している。そこにある差は、ちょっとやそっとでは埋まることのない差である。中級と上級では、もはや精霊としての格が違うのである。それこそ、コーティカルテにしてみれば、相手は赤子同然である。否、赤子以下といっても間違いではない。 状況から考えるに、コーティカルテが負けるという可能性は、間違いなく0であった。 ただし、それは両者が殺し合いをしていた場合の話である。そして、コーティカルテは別に相手の精霊を倒すことが目的というわけではなかったのだ。そこには手加減であったり、必要以上に傷つけない配慮が行われていた。対して、相手の暴走する精霊の目的は単純である。邪魔するものは排除する、ただそれだけであった。だからこそ、手加減など必要なかったのである。 そこに、両者の間にあった差を埋めるだけの鍵があった。 実際、実力差だけを考えれば、決着などすぐついていたはずであろう。しかし、本気になったコーティカルテを相手に、暴走する精霊は十分過ぎる健闘を見せていた。傍目から見れば、互角のように見えたかもしれない。 「ウアあぁあアーーーーっっ!!」 コーティカルテに向かって、いくつもの精霊雷が散弾のように撃ち込まれる。が、しかし、それはコーティカルテに直撃する手前で、爆発を起こす。精霊雷を防御壁のように展開し、すべて受け止めてていたからである。そして、お返しとばかりに、2発の精霊雷を暴走する精霊に向かって撃ち出す。 「――――ハッ!」 それは、1つは暴走する精霊が撃ち出した精霊雷と相殺され、 「ガぁ……っ!?」 もう1つが、暴走する精霊の右肩に命中する。だが、体勢を崩されたのにもかかわらず、暴走する精霊は止まることを知らない。無理な体勢から精霊雷を撃ち出し、――同時に、自身もコーティカルテに向かって飛び出す。 「……ぬぅっ!?」 コーティカルテは呻きつつ、それでも再び防御壁を展開する。撃ち出された精霊雷はコーティカルテに届くことなく、すべて爆発して散る。その直後、 「う、アあああァ、あぁアア、あ――――ッッ!!!」 凄まじい衝撃音を響かせて、暴走する精霊がコーティカルテの展開する防御壁に突っ込んできていた。 「……愚か、な」 コーティカルテは伏目がちに、目の前に佇む精霊を見る。相対しているコーティカルテは、このままでは相手の精霊がそう長くないことを感じ取っていた。神曲の支援なく力をばら撒き続ければ、精神体というべき力で構成された精霊は、やがて枯れてしまう。それは即ち、精霊の死である。 それが、今まさにコーティカルテの目の前で起こっている現象であった。 コーティカルテが少し力加減を間違えれば、それだけで目の前の暴走する精霊は消滅してしまう。その可能性は、決して低くないのである。 「ガァあ、アアあァ、アアあぁあア――――っ!!!」 そんなコーティカルテの気配りを知るはずもなく、暴走する精霊はコーティカルテの展開する防御壁へ突っ込み続ける。どうやら、精霊雷を拳の一点に集中して、突破しようという心づもりらしい。 「やめろっ、そのままでは本当に――――っ!!?」 そう。コーティカルテの言うように、暴走する精霊の行動はまったく無意味といってよかった。実力差を考えれば当然であったし、まして相手は消耗し続けている相手である。 が、その言葉を言い終わるより早く、コーティカルテの目が驚愕に見開かれる。 続けて光、ヒカリ、ひかり。爆音と衝撃波。遅れて、波がうねった。 「コーティっ!!?」 単身楽団による演奏を続けながらも、フォロンも目の前で起こった出来事に驚きを隠せなかった。それはペルセルテやプリネシカも同様だったらしく、口を大きく空けて驚いていた。 やがて煙が晴れ、その中心の様子が明らかになる。そこにはコーティカルテと、脱力したように両腕を下げた1柱の精霊の姿がある。 「――――ッッ!?」 その姿を見た瞬間、フォロンは言いようのない違和感に包まれていた。パッと見た目では、特に何も変化はないように見える。少なくとも、この場にいたフォロン以外の誰もがコーティカルテの無事な姿を見て胸を撫で下ろしていた。 (……何だ?) 神曲の演奏を続けながら、フォロンは遠くに佇む自身の契約精霊の姿をじっと見つめる。 (何だ、この違和感は!?) しかし、見れば見るほど、コーティカルテの様子におかしな点は見当たらない。が、そう思えば思うほど、本能的な部分が異常を知らせてくる。 単なる思い過ごし――などではない。 「フォロン……」 遠く離れた海上で、コーティカルテもまたフォロンの様子が変わったことに気付いていた。フォロンの奏でる神曲に僅かばかりの雑音――といっても、それが分かるのはコーティカルテだからこそであるが――が混じったのが、コーティカルテの耳に届いたからである。その雑音はすでに修正されてはいるものの、フォロンの動揺がそのまま伝わってきたことに、コーティカルテに思わず笑みが浮かぶ。 「心配するな――と言いたいところだが、な」 本当なら、すぐにでもフォロンの傍にまで飛んで行って抱きしめてやりたい衝動に駆られたものの、コーティカルテはすんでのところでそれを我慢した。なぜなら、フォロンの演奏はまだ止まっていないからであり、それがフォロンの望むことではないとコーティカルテは知っているからである。 そして、 「ガゥアあァああアアア――――!!」 コーティカルテに向かって振り下ろされた拳を、体を捻って避ける。 「こっちも、止まってはくれないみたいだしな!」 続けて打ち出される二撃目を、コーティカルテはむんずと掴み、その勢いを利用して投げ飛ばす。が、投げ飛ばされた精霊は、空中で方向転換をして再びコーティカルテに躍りかかる。 「もはや、精霊雷を撃ち出す余裕もないか」 「ゥがああアアァアああアア――――ッッ!」 今度は真正面から、コーティカルテと暴走する精霊の拳が激突する。その瞬間、爆発的な衝撃波が起こり、続けて大気が振動する。遠く離れたフォロンたちのところまで、その余波は届くほどであった。しかし、驚くべきことはそのことではない。 「な……っっ!?」 フォロンの表情は、まるで信じられないものを見たかのような変化を遂げる。 なぜなら、2柱の精霊の衝突の瞬間、コーティカルテの姿が普段の姿に戻ってしまったからである。その姿は、コーティカルテが身体を安定させるためにとっている姿である。 それが意味することは、つまりコーティカルテの身体が大人の姿を保てなくなったということである。 「な、んで……?」 が、それも僅かなことで、衝撃波が治まる頃にはすでにコーティカルテの姿は大人なそれに戻っていた。そのことが、さらにフォロンの思考を混乱させる。 「ね、ねぇ、プリネ?」 「うん……今、コーティカルテさんが」 そのことにはペルセルテとプリネシカの双子も気付いたようで、心配そうに遠くの紅い精霊と傍の神曲楽士を見つめる。けれど、気付くことはできても、何も手伝うことができない。それが、ペルセルテにとって歯痒いことであり、プリネシカにとって心を痛めることであった。 (~~~~~~~~~~っっ!!?) 原因も分からず、フォロンはひたすらに演奏を続けることしかできない。加えて、フォロンの頭の中ではいつまでも先程からの違和感がぐるぐると渦巻いていた。 その一方でコーティカルテも、自身の変調には気付いていた。しかし、そこに浮かぶのは「驚き」ではなく「怒り」の表情であった。なぜ驚きではなかったのか。簡単な話である、彼女は自身の変化の原因を知っていたからに他ならない。 「フォロンのやつめ……」 そう忌々しげに呟く彼女の視線は、見抜くように浜辺で演奏を続けているフォロンに向けられていた。彼女に届けられる音は、たしかに神曲。が、それだけではない。フォロンの中に生まれた不安、疑問、そういった感情が本人の知らぬうちに神曲の中に紛れているのであった。これでは、それを聞いている身としては文句の1つも言いたくなるというものである。だが、それは2つの理由で叶わない。 1つは距離である。このフォロンとの絶対的な距離が、すぐにそれを実行できない理由となっている。しかし、距離などは埋めれば済むことではある。だが、それが叶わない状況――目の前の暴走する精霊――それが2つ目の理由であった。 「あぁアッッ!!」 コーティカルテの横を、鋭い突きが突き抜けていく。そこには、数瞬前までコーティカルテの顔があった場所である。が、今はただ空気を切り裂くだけで、その突きは役目を終えてしまう。 「ハァ――――っ!」 相手が突きを放って伸びきった体勢に、今度はコーティカルテの一発が放たれる。決して避けられるような体勢ではない、がその問題は精霊という一言で片付けられてしまう。暴走する精霊は、急激な方向転換をすることで、そのコーティカルテの一撃を薄皮一枚で避けてみせたのだ。さらに、その勢いのままに今度は裏拳を叩き込もうとしてくる。 「ぬるい――」 しかし、その攻撃を読めないほどコーティカルテは甘くはない。その拳を受け止めるように突き出された掌は、そのまま相手を掴んで放り投げる。そして、それだけでは終わらず、さらに精霊雷を追う様に撃ち出してみせる。 「ガアァ……!」 その1つの直撃を受けて、暴走する精霊は呻き声を上げる。と同時に、精霊が展開している羽が明滅を繰り返すようになる。いよいよ、精霊がその実体化が保てなくなっている――――だけでなく、その存在そのものが消えようとしていた。 「ふん……他愛もない」 そう鼻を鳴らして、コーティカルテは風前の灯となりつつある精霊を見下ろしていた。いくら届けられる神曲が万全ではないとしても、そこに上級と中級の差があるのは歴然であった。ましてや、相手には神曲もなく手負いの状態だったのだ。少なくとも、コーティカルテが本気を出せば、この戦いなどあっという間に終わっていたことだろう。 ――――暴走する精霊の消滅、という結果によって。 「まだ続けるか? それとも――」 その先を、コーティカルテは言わない。それ以上言うことは、コーティカルテにはできなかった。なぜなら、それが暴走し続ける精霊の意志であるからであり、たとえコーティカルテであってもそれを冒涜するような真似は許されるべきではなかったからだ。だから、再度尋ねたのは彼女の優しさ。けれど、そこに一切の甘さは含まれてはいない。 「コワス、コわス、ぜンブ……こわス」 ほとんど力など残ってはいないのだろう。もはや下級精霊以下といっても問題ないほどの消耗をしている精霊は、しかし、たった1つの目的だけを決して間違えない。まるで亡霊のようにブツブツと呟きながら、前進を止めることを知らない。 「コワすァ――――ッッ!!」 再び躍りかかる影。精霊雷を身に纏い、けれどその放出はまったくの出鱈目。精霊雷を収束させるだけの力はなく、次々とその制御を離れて散っていく。それに伴い、暴走する精霊の薄さが際立つようになるが、溢れ出る精霊雷、そのエネルギーが尽きることがないようにも思える。だがしかし、その存在はもはや精霊と呼べるものだったのだろうか。あるいは、それは精霊の最後の灯火のようなものだったのかもしれない。 そして―――― 「ガぁアゥあ……ッ!?」 その終わりは唐突に、あまりにあっけなく訪れる。放たれた精霊雷は、まるで空に消える虹のように輝き、そして散っていく。すでに、自らを留めておけなくなった時点で、この精霊の末路はほぼ決まっていたのである。消滅、崩壊、霧散、いろいろ表現することはできようが、その結果は「零」である。 「残念だが……」 コーティカルテが、そう言って目を伏せる。覚悟がなかったわけではない、むしろそうなる結末は予想していた。ただ、それでもコーティカルテは、この終わりを望んではいなかったのである。 「コーティ……」 遠く離れた浜辺で、フォロンもまた事の終わりを見届けていた。周りでは、職員たちが勝ったという事実に安堵し、喜び合うという光景が繰り広げられていた。しかしフォロンにはそれが素直に喜べない。もちろん、フォロンには、海の向こうでどんなことがあったのか正確に知っているわけではない。だが、たとえ知らなくても、フォロンに胸に沸き起こるこの感情だけは、無視できるものではなかったのだ。 決して自惚れているわけではない。それでも、自分がベストを尽くせたのかどうかの自問自答を繰り返すフォロンであった。 そこに――――。 ふと、フォロンは顔を上げる。そして何かを探すように視線を彷徨わせる。一見すれば、その行動は不思議なものに見えたかもしれない。だが、フォロンの感覚が確実に何かを告げていたのだ。フォロンは、その正体を確かめるため、全身の感覚を研ぎ澄ませてその原因を探索する。 何かが、 この歓声に満ちた浜辺に紛れて、 この大海原の音に紛れて、 否、 紛れて、ではない。それはまるで全ての音の背後に隠れるように、けれど、その存在は絶対に。それはなくてはならないものとしてそこにあったのだ――!! 何時から? ずっと前から? それともほんの一瞬前か? それすら惑わすほど、その旋律は周囲に溶け込みすぎていたのだ。 神曲――――! 奏でられるそれは、フォロンが一瞬でそれと分かる神曲であった。そして、その神曲が奏でる魂の形、想いの形、紡がれるメロディーはフォロンの目を一気に覚まさせた。 「コーティ――ッッ!!」 叫ぶや否や、フォロンは再び鍵盤へと指を走らせる。と、同時に、コーティカルテの周囲が眩しく輝きを増し始める。それはあっという間に光の本流となり、次の瞬間に閃光と爆発を起こす。 波がうねる。舞い上がった水飛沫は、残光にキラキラと反射して幻想的な風景を描き出す。そして、そこには彼女がいた。 ほんの少し前に、その存在を散らせたと思っていた彼女が。 あれほどまでに衰弱していた彼女が。 まるで本来の力を取り戻したかのような輝きを、それ以上の存在感を発する4枚羽を伴って。 PR |
ACT4
まずその異変に気づいたのはフォロンでも、コーティカルテでも、そしてペルセルテでもなく、プリネシカであった。なぜなら、プリネシカだけが、この時周囲を冷静に見ていたからである。彼女は、ペルセルテのようにフォロンに対する特別な感情は持ち合わせていない――とはいっても、2人の様子が気にならないといえば嘘になるが――ので、それだけ周囲に気を配るだけの余裕があったのだ。そして、そのプリネシカの瞳に、はっきりと何かが映った。 最初に映ったのは小さな影だった。だが、小さいのは距離が離れているからであり、実際にはもっと大きなものであると想像できる。そして、驚くべきことは、その小さな影は、かなりの距離があるのにもかかわらず見えたということである。 「ね、ねぇ、ペルセ……」 「ちょっ、プリネ引っ張らないでよ。今、目が離せない……んわぁっ!?」 しかし、抗議するペルセルテの首を強引に回して、プリネシカは自分の目に映ったものをペルセルテにも見せた。だが、ペルセルテにしてみれば、そのあまりに突然のことに頭が追いつかない。 「あれ、見える?」 「え……?」 そんなペルセルテの心情などお構いなしといわんばかりに、プリネシカは質問を投げかける。いきなりのことに混乱していたペルセルテも、プリネシカが指差した方を見て、少し顔色を変えた。 「うん見えるけど……でも、あれが?」 たしかにプリネシカが指差す方向に何かがあるということはペルセルテにも分かった。ただ、ペルセルテにしてみればそれだけである。そのことに何か意味があるのか、ペルセルテはさっぱり分からなかった。だが、事実を把握しているプリネシカにしてみれば、そこには違う解釈が生まれる。 「ほんの少し前まで、あんな影は見えなかったの。……それで、徐々に大きくなってきてる」 「それって近付いてきてるっこと?」 プリネシカに比べ緊張感のないペルセルテが、プリネシカの言いたいことを端的に言い表す。たしかにそれは間違ってはいないのだが、しかし、プリネシカが伝えたいこととは違っていた。 「うん、それもかなりの速度で」 ペルセルテは少し考え込んで、そして疑問を口にした。 「でもさ、船ぐらい見えるんじゃない?」 ペルセルテの疑問はもっともである。ペルセルテたちがいるのは浜辺であり、その先に広がるのは海である。近くに船着場もあることも知っているし、船が見えても普通じゃないかと彼女は考えた。だがしかし、プリネシカが何の理由もなしにこんなことを言うはずもないことも知っていたので、ペルセルテは頭ごなしに否定することはしなかった。 「船じゃないと思う」 「え?」 「この距離で見えるってことは、たぶん船のサイズじゃない……もっと大きなものだと思うの」 それを聞いて、ようやくペルセルテにもプリネシカが言いたいことが理解できた。それでも、他の可能性がないわけではない。 「船着場に向かっているんじゃない?」 「たしかにそうかもしれない。……でも、何か変」 「……変?」 「うん。まず、速度が速すぎること。ほら、もうさっきより大分はっきり見えるようになってきた」 そう言ってプリネシカが指差す方を見れば、たしかに小さな影のようにしか見えなかったものが、人の目にもはっきりとした形で見えるようになっていた。それは、船のような形ではあったが、やはりプリネシカの言うように船よりもかなり大きいサイズのように思えた。 「それに、おそらく速度超過してるはず……やっぱり変だよ」 「まさか……こっちに突っ込んできたりしない、よね?」 動揺の色を見せながら、ペルセルテは希望を口にする。 「分からない……でも、もう少し様子を見た方がいいかもしれない」 「そうだね」 ペルセルテとプリネシカが頷き合いながら視線を海へと向けると、そこには次第にその形を大きくさせながら近付いてくる船の姿があった。その姿に、プリネシカの予想を軽々と打ち砕くだけの力があることに、まだ誰も気づいていなかった。 次に異変に気づいたのはコーティカルテであった。ただし、彼女が気づいたのはプリネシカのように段々と大きさを増しながら近付いてくる船の姿を見つけたからではなかった。コーティカルテは、その自身と同じものである存在のざわめきを敏感に感じ取ったのである。 「……コーティ?」 突然立ち止まったコーティカルテを振り返る形で、フォロンは凛と背筋を伸ばして虚空を見つめる彼女の姿と向かい合った。いつもはすぐに答えてくれるコーティカルテは、しかし、フォロンの問い掛けに答えない。あちこちへと視線を彷徨わせながら、そして、コーティカルテの瞳が何かを捉える。 「フォロン……ちょっと面倒なことになった」 まるで何もかも見透かしたかのように一点を見つめるコーティカルテの横顔を見つめながら、瞬間的にフォロンは何かが起きたことを悟った。フォロンは、コーティカルテの見つめる先を辿って……そして、彼女が何を見ていたのかを知った。 「あれっ、て……?」 船のように見えるそれは、だがしかし、サイズという点において普通の船を軽く凌駕していた。まだ遠目に見えるその姿は、それが戦艦だといっても差し支えないほどの迫力を持っていた。 「精霊が騒いでいる」 端的にそれだけを言うコーティカルテの横顔は、しかし、事実がそれだけでないことを示していた。だが、それ以上言うことはせず、もう1つの重要なことを告げる。 「あの船……突っ込んでくるぞ」 「――――っっ!?」 フォロンが息を飲む。そして、まるでその会話を聞いていたかというほどの絶妙なタイミングで、浜辺に異常を伝えるアナウンスが流れ始めたのだった。マイクを通じて流れるその音声は、あまりの突発的事態が信じられないといわんばかりの狼狽ぶりで、けれど忠実に職務を遂行するために何度も噛みながらも避難のアナウンスを繰り返していた。 これは、いち早くその存在に気づいたユギリ姉妹が、浜辺の監視員にそのことを伝えた結果である。監視員が、その事実を本部に伝えて数分後、先程のアナウンスが流されるに至ったのだ。この決定は随分早いことのようにも思えるが、実はそうではない。なぜなら、この決定に際して精霊が関わっていたからである。見かけることは少ないが、この浜辺には常に1人以上の神曲楽士が常駐しており、有事の際に備えているのである。これは、たとえば溺れた人がいた場合、人が助けるよりも近くの精霊に助けてもらった方が安全で迅速に救助ができるためである。ともかく、この報告は、本部を通じてすぐに待機していた神曲楽士へと伝わり、そして神曲楽士が精霊を通じて「不審船」の調査を行ったのである。その結果、精霊はあちこちに傷を受けた状態で帰還し、そして、船の行き先が浜辺であることを告げたのだった。それはつまり、向こうには精霊がいて、尚且つ、敵対意思があるということに他ならないのである。よって、精霊が戻ってきてすぐに避難警報の発令が決定され、アナウンスされるに至ったのである。 浜辺は、加速度的に大きくなる騒ぎ声とともに、今までどこにいたのかというほどの警備員が姿を現し、海水浴客を誘導し始めた。その間にも、一切速度を落とすことなく近付いてくる船は、すでにその輪郭を徐々に現し始めていたのだった。 避難のアナウンスが流れてから10分ほど経過して、フォロンとコーティカルテは浜辺を管理する本部まで辿り着いていた。休暇中とはいえ、この状況を見過ごせるはずもないフォロンは、何か力を貸せることがあるはずだと考え、行動したのである。 「すいませんっ」 勢い込んで本部に入ったものの、フォロンの姿はそこらの海水浴客と一緒であり、間違っても神曲楽士に見えるはずもなかった。よって、入口付近で慌しく動いていた社員に注意されてしまう。 「ここは危ないから君達も早く避難しなさいっ。ほら、向こうにいる警備員の指示に従って!」 「いえ僕たちは……」 フォロンが説明をしようとした、その瞬間、 「――――何が起きている?」 本部に、透き通るかのように凛とした声が響き渡った。その声に、誰もが一瞬動きを止め、そして、声のした方へと視線を向けたのだった。 緋色の髪をたゆらかになびかせて、少女の姿をした精霊――コーティカルテ・アパ・ラグランジェスが圧倒的な存在感でそこに立っていた。しかし、コーティカルテが支配した場の雰囲気はわずか数秒しかなかった。先程より刺々しさの抜けた穏やかな声で、同じことを繰り返されたのである。 「お、お嬢ちゃん……ここは危ないから、ほらお兄さんと一緒に……」 「……お嬢ちゃん? お兄さん?」 その言葉に敏感にコーティカルテが反応する。お嬢ちゃんと言われたことも腹立たしいことであったが、しかしそれはそう見られることが珍しいというわけでもない。むしろ、コーティカルテは自分がフォロンの妹、もしくはそれ同等の存在として扱われたことに腹を立てていた。 「痴れ者が。この私を年下扱いするとは、いい度胸だ!」 「あ、え?」 しかし、事情を知らない所員にしてみれば、コーティカルテの台詞は到底理解できるものではない。だから、コーティカルテは、彼らにも分かるように行動で示さねばならなかった。 「そこの……状況を説明しろ」 とコーティカルテが示す方には、1柱の精霊がいた。人間のように血が流れたりするわけではないが、その精霊は傷つき弱っている状態であった。さすがに消滅――死ぬほどではないが、それでもそのダメージは結構なもののようにフォロンは思えた。 「あなたは……?」 弱々しいながらもはっきりとした声で、傷ついた精霊は目の前に佇む同じ存在に尋ねた。 「……我が名は、コーティカルテ・アパ・ラグランジェス」 「…………っ!?」 傷ついた精霊が驚いたように息を飲み、そして、彼女の名前を聞いた所員たちがはじめて、コーティカルテが精霊であることに気づいた。 「失礼を。船には精霊が1柱、敵対意思あり。……どうやら、暴走しているようです」 少し迷いながら最後の一言を付け加えると、コーティカルテは特別驚くような素振りを見せず、ただポツリと、 「……そうか」 と呟いただけだった。しかし、フォロンの方は、そうまで冷静にいられるはずもなく、動揺を瞳に浮かべながらコーティカルテの背を見つめ、そして自分が何をしにここまで来たのかを思い出した。 「何か、何か手伝えることはありますか……?」 「君は、もしかして神曲楽士かい?」 そう尋ねられて、フォロンはいつものように書類を取り出そうとして、今は休暇中で持ち合わせていないことに気づいた。慌てて取り繕うように言い訳をする。 「えぇと、はい。……その、今日は休暇で遊びに来ていたんですけど」 「フォロン、それほど時間はなさそうだ。……それで、あれをどうするつもりなんだ?」 余計な話を遮って、コーティカルテが本題を切り出す。フォロンが神曲楽士だと分かったせいか、今度は協力的に所員が説明をしてくれた。 「警察に連絡しましたが、到着するにはまだ時間がかかるみたいで……間に合うかどうか。それに、間に合ったとしても、あれを止めるのは困難でして」 「たしか、精霊が暴走しているって……?」 フォロンが傷ついた精霊の方に視線を送ると、傷ついた精霊は首を縦に振り肯定を示した。 「話そうとしましたが……まったく通じてないみたいで。近付いてくるものに無条件に攻撃を仕掛けているみたいです」 「そうか、精霊が騒いでいるのはそのせいか」 精霊の話を聞き、コーティカルテは納得する。――近付いてくるものすべてということは、すなわち人の目には映らない精霊も例外なくという意味である。そして、近づけないということは、船を止める術はないということである。 「でも、それじゃあ浜に衝突するのを待つしかないってことですか?」 「……それで済めば話は早いんだが、そういかなくて」 渋るように所員が濁せば、場の空気が一瞬にして重くなる。それはつまり、それだけでは済まない問題があり、しかも解決困難な問題であるということに他ならない。そんな空気を打ち破るかのように、コーティカルテが確認するように尋ねる。 「問題は積荷だな?」 「え、あ? はい、よく分かりましたね」 戸惑ったように所員が頷けば、フォロンが首を傾げた。 「積荷って何なんです?」 「――原油です」 それを聞いたフォロンが息を飲み、コーティカルテは目を伏せる。 「原油って……それじゃあ、もし!」 「はい。浜に衝突した衝撃で海に漏れるか……最悪爆発する可能性も」 どちらにせよ、結果としては最悪である。特に、浜辺を運営している側としてみれば、その被害は甚大である。 「でも、止めようと近付けば攻撃される……これじゃあ、どうしようもないじゃないですか!」 思わず興奮するフォロンだが、しかしすぐに冷静さを取り戻したのか、小さく恐縮したような声で「すいません」と謝った。 「要は――あれを止めればいいわけだろう?」 「コーティ?」 フォロンが驚いてコーティカルテの方を見れば、そこには不敵に笑う紅い精霊の姿があった。 「あれ、いない……?」 「えぇぇっ!? 先輩、どこ行っちゃったんですか~!?」 ペルセルテが叫ぶが、その声は海へと吸い込まれるように消えていってしまう。ペルセルテとプリネシカが、危険を伝えるためにいったん浜辺を離れ、そして戻ってきたとき、そこにはフォロンとコーティカルテの姿はなかったのである。 「やっぱり、あっちで待っていた方が良かったんじゃないかな?」 そう、プリネシカがやや呆れた風に言う。ちなみに、プリネシカはここに来る前にも同じことを言ったのだが、それはペルセルテにより却下されたので、ここまでやってくることになったのである。まぁ、辺りには避難のアナウンスが繰り返し流されているのだから、むしろそこにいる方がある意味おかしいのだが。そのことにペルセルテは気づいていない――というより、別の壮大な目的によって無視されることになったのだ。 「それじゃー、先輩にお礼を言って頭を撫でてもらえないじゃないっ!!」 それを聞いてプリネシカは頭痛があるかのように額を押さえ、そして、自身を納得させるために一呼吸入れた。そして、プリネシカが次の言葉を発しようと口を開いた瞬間、 「――こんなところで何をしているのだ?」 そう、聞きなれた声が響いたのだった。その声を聞いた瞬間、ペルセルテは期待に目を輝かせて振り返るが、しかし、そこに期待する人物がいないことに気づく。それはプリネシカも同じだったらしく、さりげなく周囲に視線を送ったのだが、そこに見えたのは浜辺を管理しているスタッフだけであった。 「コーティカルテさんこそ、なんで?」 考えるより早く口が動いたペルセルテが問えば、2人に声を掛けた人物――コーティカルテは、答えるのが面倒そうな顔をして、それが次の瞬間に一変した。 「おい、なんでそれがここにあるっ!?」 慌ててコーティカルテがそれを指差せば、ペルセルテはキョトンとした表情になり、そして察しのいいプリネシカはコーティカルテが慌てた理由を悟った。 「それって、これのことですか?」 ペルセルテは、コーティカルテの指の先を辿り、そしてそれがペルセルテが支えている物であると気づいた。ペルセルテが――両手で支えているため――顎で示してみれば、プリネシカは脱力したように俯き、コーティカルテは頬を少し上気させて怒鳴った。 「そうだっ、なんでハーメルンがここにあるんだ!?」 「何をそんなに怒るんですかー。私は先輩のためにわざわざこうして持ってきてあげたっていうのにっ!」 売り言葉に買い言葉で、最後の方はペルセルテも少し怒ったような口調になる。 そう。ペルセルテは、プリネシカとともに監視員のいる場所まで向かったついでに、フォロンのバイクであるハーメルンと一緒に戻ってきたのであった。もちろん、そうすればフォロンに喜んでもらえるとペルセルテが勝手に判断して、プリネシカの静止も聞かずにやったことである。しかし、その行為が今回は完全に裏目に出ていたのである。 「ペルセ、フォロン先輩はどうしてここにいないと思う?」 その理由に気づいているプリネシカが問えば、 「え? う~ん……なんでだろ?」 ペルセルテは身も蓋もないことを言ってしまう。 「阿呆が、フォロンがいないのは、それを取りに行ったからだ!!」 そう言って、コーティカルテが先程と同じものを指差す。数秒、沈黙が流れ、そしてその意味を理解したペルセルテが大絶叫を上げる。 「ええぇぇぇ~~~~~っっ!!?」 プリネシカは、今度こそ本当に頭痛がして額を押さえる。けれど、そうしたところで事態が好転するはずはない。すぐに気持ちを切り替えると、フォロンを捜しに行くべく走り出す。 「私、捜してきます!」 「あ、待ってプリネ、私もっ」 そうしてペルセルテも走り出せば、あとには憮然とした表情のコーティカルテと、不安げに海を見つめるスタッフ、そしてポツンと残されたハーメルンだけになる。 「まったく……――――」 コーティカルテは、主を待つように佇むハーメルンの傍に近寄って話しかけるように唇を動かしたが、その声は風に流され誰の耳にも届くことはなかった。 コーティカルテと別れたフォロンは、駐車場へと向かっていた。コーティカルテの指示により、フォロン専用のバイクであるハーメルンを取りに行くためである。 「ハァハァ……つ、着いた」 幸い、避難を告げるアナウンスが流れてから十数分は経っているため、辺りに客の姿は少ない。ただ、それでも、これから避難をしようとする人が駐車場の出口付近で渋滞を起こしていたので、フォロンも多少苦労して駐車場内へと入ることになった。 息を整える意味で視線を海へと向ければ、そこには巨大な――それは近付いたためにそう見えた――タンカーの姿があった。もはや、一刻の猶予もないと気合を入れなおし、今朝ハーメルンを止めた場所を探して走り始めた。そして、その場所はすぐに見つかった。見つかった、のだが問題があった。 「ないっ……どうしてっ? なんでっ!?」 目的の場所はすぐに分かった。なぜなら、そこに一緒に来たペルセルテのバイクが置いてあったからである。フォロンは、その隣にバイクを止めたはずだから、当然そこにあるはずだと思っていた。 ――実際は、すでにペルセルテが持ち出してしまっていたのだが、それをフォロンが知るはずはない。 しかし、そこにフォロンのバイクはなかった。たしかに珍しい車体ではあるので盗まれたかとも思ったが、防犯対策はしっかりとしていたはずである。その可能性は低い。もしかしたら、別の場所に移動されたのかと考え、フォロンは周囲を見回すが、それらしいシルエットは見つからない。 「ど、どうしよう?」 焦る気持ちが、よけいに冷静な判断をフォロンから奪っていた。こうしている間にもタンカーは近付き、コーティカルテはフォロンが来るのを待っているのである。 「くそぉ、ないならないで別の方法を考えるんだ……っ、そうだ!」 そのときフォロンの脳裏に何かが閃いた。フォロンは、その閃いたことを検証し、それが今できる最高のことだと判断すると来た道をダッシュで戻り始める。それは賭けではあるのだが、決して可能性の低い話ではないことである。 ここに神曲楽士がいること、そして、コーティカルテが求めているのは別にハーメルンではないということ。その2点からフォロンが導き出したのは、ここにある単身楽団を借りるということだった。ただし、ここにある単身楽団にフォロンが扱えるものがあるとは限らないので、そこは賭けである。しかし、フォロンが扱っているのは鍵盤――キーボードである。少なくとも珍しい楽器ではないし、1つぐらい置いてある可能性は十分考えられた。 そしてフォロンは、出入り口付近の混雑を抜けて本部への道を駆け出し始めたのだった。 時を同じくして、フォロンを捜してやってきたペルセルテとプリネシカは出入り口付近の混雑で足止めを余儀なくされていた。捜してとあるが、実際のところフォロン行き先は分かっていたので、追いかけたという方が正しいかもしれない。しかし、そのどちらにせよ、2人はこの混雑の波に飲まれ、右往左往している状況に陥っていた。普通の少女と変わらない2人には、その流れに逆らうだけの力はなかった。 「プリネっ、どこ……!?」 「――っ! こっち、ペルセ!!」 その中、やや小柄な2人がギリギリ通れるぐらいの隙間を上手く見つけて、プリネシカがペルセルテの手を引っ張って進む。その間も、人の波は容赦なく2人を飲み込もうとしたのだが、それでもなんとか抜けきることができた。急に開けた視界に目を白黒させながら、そこにフォロンの姿を捜そうと視線を彷徨わせる。 「……いない?」 「そんな……せんぱぁ~いっ!」 しかし、駐車場内に人の姿はなく、ペルセルテの呼びかけも虚しく響くだけであった。 「先輩どこ行っちゃったんだろう? でも、ハーメルンを取りにここにきたはずだよね?」 ペルセルテが確認するように尋ねれば、プリネシカもそれに同意するように頷く。 「うん。そのはずだけど……もしかしたら、ハーメルンがないのを見て、別の代わりになるものを探しに行ったのかも」 「えぇっ? じゃあ、もしかして入れ違い!?」 そう言ってペルセルテが振り返れば、そこには未だ避難途中の海水浴客がいる。 「ぁ……?」 その中に、ペルセルテは見知った何かを見たようにして、小さく声をあげる。そして、その何かを確かめようと、ゆっくりと視線を動かす。と、その中に自身の記憶と確かに一致する後姿があったのをペルセルテは見逃さなかった。いや、むしろその姿をペルセルテが見逃すはずがなかったのだ。 「いたーーーっ、プリネ、先輩いたぁーーーっっ!!」 「あの方向は……ペルセ、お願い!」 プリネシカが視線で合図すれば、ペルセルテも即座にそれを理解して返す。この辺は、さすがに双子といったところであろうか。 そして、プリネシカはフォロンを追いかけるため走り出す。が、それをペルセルテは追いかけない。プリネシカの後姿を見送るようにその場に残ったペルセルテは踵を返してある方向に走り始めたのだった。 |
ACT3
どうしてこんなことに。 どうしてこんなことに。 どうしてこんなことに。 ――答えてくれる彼は、もういない。 車を走らせること1時間と少し、レンバルトは海に来ていた。とはいっても、フォロン達のように浜辺にいるわけではない。依頼の手がかりを追ってやってきたのは、海は海でも船着場の方であった。ただし、ここからそう遠くない場所に浜辺もあり、フォロン達が遊びに来ていたのがそこであったのだが、そのことをレンバルトは知る由もない。ともかく、レンバルトは車から降りると、潮風を受けながら人を捜し始めた。 「あ、すいません。ちょっといいですか?」 レンバルトは、近くにいた船乗りに声を掛けた。日焼けして、がっしりとした体格の船乗りは――自分の船だろうか――船の手入れをしていて、タオルで汗を拭きながら振り返った。 「うん、なんだい?」 見た目よりは幾分か優しそうな笑顔で、船乗りはレンバルトと向き合った。レンバルトも人当たりのいい笑みを浮かべながら、船乗りに尋ねた。 「実は、船を捜しているんです」 「船?」 依頼者であるティーンによれば、失踪した2人――エヴァンスは船を用意していたらしい。ならば、とりあえずその船について調べてみれば、2人の行方が分かるのではないかとレンバルトは考えたのだ。 「えぇ。この辺にレンタルできる船ってありますかね?」 「レンタル……いやぁ、そういうのはないと思うけどなぁ」 しかし、レンバルトの予想に反して、船乗りの答えは否定的なものであった。そこで、どうしたものかとレンバルトは考え込む。そんなレンバルトの様子を見て、船乗りは丁寧に説明してくれた。 「兄さん、船を借りたいのか? だけどなぁ、この辺の船は全部誰かしらが私有物だからな……」 「全部、ですか?」 「あぁ、全部な」 それを聞いて、数秒レンバルトは頭の中を整理する。そこで、1つの仮定を立て、質問を組み立てる。 「それじゃあ、最近、戻ってきてない船ってありますか?」 「んん?」 レンバルトの質問を受けて、船乗りはしばらく船着場を見回したり考え込んだりする。そして、ゆうに30秒は経過してから、ゆっくりと口を開いた。 「あー、たしかに、ここ数日戻ってきてない船はあるが……別に珍しいことじゃないぞ?」 レンバルトの質問を誤解したのか、船乗りはそう付け加えてくれた。とりあえず、レンバルトは思いついた仮定の真偽を確かめるため、船乗りに頭を下げた。 「すいません、分かるだけ教えてください!」 「あ、あぁ、別に構わないが……」 その勢いに圧倒された船乗りは、そのまま返事をしてしまう。そして、覚えているだけ船の名前や持ち主のことについて話し始める。レンバルトはペンと紙を取り出すと、そこに船乗りの言葉をもの凄いスピードで書きとめ始めた。 夕方――といっても差し支えない時間帯、しかし、夏では夕暮れにはまだまだ時間がある。次第に傾く陽射しを横に受けながら、フォロンは少し眩しそうに目を細めながら浜辺を歩いていた。ジャリ、ジャリと踏みしめる砂浜に残る足跡は2組ある。フォロンと、その傍らにいるのはコーティカルテである。いつもは、どちらかといえばフォロンにまとわりついて五月蝿くしている印象の強い彼女であったが、今は一転、フォロンの隣で少し俯き加減で寄り添っているという感じである。その頬がいつもより赤くなっているのは、陽射しのせいだけではないだろう。 「……こうして、2人きりでゆっくりと歩けるのは久しぶりだね」 心地よい沈黙を保ちながら、フォロンはふと思いついたことを言った。 「そうか。……そうだな」 フォロンが神曲楽士としてツゲ神曲楽士派遣事務所で働き始めた当初、フォロンとコーティカルテは徒歩で事務所まで通勤していた。毎朝、それは変わることなく2人は事務所への道を一緒に歩いていたのだった。しかし、その光景はフォロンが事務所からフォロン専用のバイクを渡されたことであっけなく終わってしまうことになったのである。フォロン専用のバイクは、その特殊性ゆえに常にフォロンの近くにあった方が都合がよい……というか、いざというとき傍になければ困る。そのため事務所から買い与えられたフォロン専用のバイクは、半ば以上フォロンの私物とならざるを得なかったのである。ちなみに、バイクの代金は毎月の給料から少しずつ引かれていて、最終的にフォロンが買い取ることになっていたりする。ともかく、フォロンは、毎朝バイクの後ろにコーティカルテを乗せて事務所に出勤するようになったのである。必然的に、歩いて出勤するという機会はほぼなくなり、こうした時間は貴重なものになっていた。 「最近は結構忙しいし……こうして改めて意識してみないと、コーティと過ごす時間があまりに普通になりすぎてた、というか」 そこで、フォロンは考え込むように一息つく。 「うん、でも、うまく言えないけど……やっぱりコーティは、僕にとって特別なんだと、思う」 「ばっ……!? フォロン、お前――っ!!?」 途端に、コーティカルテは真っ赤になってフォロンの方を向く。慌てた様子のコーティカルテに、自分が言ったことの意味を深く考えていない――というより、別の次元で解釈している――フォロンは驚いたように瞳を見開いた。 「ど、どうしたの?」 「う……ぁ、なんでもないっ」 そして、コーティカルテはもの凄い勢いでソッポを向いてしまう。この辺が、フォロンが鈍感たる所以なのだが、こればかりは致し方ないというものである。もちろん、それはコーティカルテにとって不満なことでもあるのだが、今回のフォロンの言葉はそれを帳消しにして十分余りあるものだったのだ。実際、気を良くしたコーティカルテは、さっきまでのおしとやかな雰囲気は何処へやらといった感じで口を開いた。 「フォロン、知っているか? 海には精霊が多くいるのだぞ」 「あ、うん。聞いたことあるよ。……でも、なんでなのかな?」 フォロンが首を傾げると、フフンと自慢するかのようにコーティカルテは胸を張って続きを言った。 「別に海に限ったことではないのだ。……フォロン、耳を澄ましてみろ」 「……?」 疑問符を浮かべながらも、フォロンは薄くまぶたを閉じて耳に神経を集中させる。コーティカルテも、フォロンに倣うように軽く目を閉じた。そうして、無言に時間が数十秒流れる。ふいに、コーティカルテはフォロンに尋ねる。 「……どうだ?」 「……うん、心地いい音がする」 フォロンは、今の気持ちをできるだけ素直に答えた。それでも、先程まで胸に沸き起こった感情の渦を全て吐き出すことができなかった。フォロンの耳は、たしかに何をかを捕らえたのだが、それが上手く形になることはなかった。 「そうだ。……これもまた、神曲なのだ」 コーティカルテは、そんなフォロンの様子を見て満足そうに頷いた。そして、そのコーティカルテの言葉は、まるで砂漠に染み込む水のようにフォロンの心にすっと溶けていったのだった。 「神曲……そうか、そうなんだ」 驚くというよりは、むしろ「あぁ、なるほど」といった納得の意味合いが強かった。 「海、山……自然が溢れる場所では、精霊が集まりやすいのだ。この意味が分かるか?」 フォロンは、少しだけ考えて答えた。 「精霊は……人の善き隣人じゃないということ?」 その答えに、コーティカルテは目を丸くして驚いた顔をした。そして、すぐに破顔し笑い声を上げた。 「フォロン、どうしてそうなる? ……まぁ、フォロンが考えたことも分からなくもないが」 精霊は人の善き隣人、それは人と精霊の関係を表した言葉である。ただ、それは多くの人がそう認識しているというだけの1種の社会通念的なものであり、また、そうあってほしい、そうあるべきだという理想的なものであった。精霊をよく知り、そして、精霊との付き合いが長い人であれば、もう少し違った解釈をしている。中には、精霊との関係はギブアンドテイクのドライな関係だと言い切る人もいる。もちろん、それはほんの少数の話であるが。 「フォロン……精霊が自然が溢れる場所に集まるのは事実だ。だが、それでも我々は、人と共にあろうと望むだろう」 「どういう意味?」 コーティカルテの言葉の意味を理解できずにいるフォロンが、首を傾げた。コーティカルテは、ふむと少し考え込んで、それに答えた。 「結論を言うなら、人が神曲を奏でることができるから、だな」 フォロンは黙ってコーティカルテの話の続きを聞いた。 「人が……フォロンが奏でる神曲は、いつも私を熱く、大胆に、激しく、惑わせる」 「……っぅ!?」 コーティカルテの、あまりに直球な物言いに、フォロンは息を飲んで顔を赤らめた。それを横目で見ながら、コーティカルテは恍惚とした表情で話を続けた。 「だから、精霊は神曲を奏でる人の傍にいるのだ。これまでも、これからも」 そこまで言って、コーティカルテはフォロンの顔をじっと見つめた。未だに頬に赤みの残るフォロンは、そのコーティカルテの瞳に吸い込まれそうになった。 「でも、それでも……この海のように精霊が集まる場所があるのはなぜなの?」 「そうだな……それは、」 コーティカルテは、そこでいったん区切って再び言葉を紡いだ。 「神曲楽士の数が圧倒的に足りないから、というのが1つの理由ではあるな」 「数が?」 たしかに、神曲楽士として精霊と交わることができる者はほんの1握りの人間だけであった。神曲学院が設立され、神曲楽士を育成する制度が整っているのにもかかわらず、最終的に神曲楽士と認定されるのは、それこそ選ばれた人間なのである。 「そうだ。人には見えぬだけで精霊は数多く存在している。それらを全て満足させるだけの神曲楽士には、まだ全然足りていない」 フォロンは、神妙に頷いた。 「だからこそ、精霊は神曲の聴ける自然がある場所に集まるのだ」 そこで、コーティカルテは付け加えるように咳払いをして、 「もっとも、人の奏でる神曲が麻薬なのに対して、そうした場所の神曲は良く言って栄養剤、サプリメント程度の効果しかないのだがな」 フォロンは、丁寧に説明をするコーティカルテの横顔を見つめた。そして、このコーティカルテ・アパ・ラグランジェスという存在がフォロンとは異なる存在――精霊なのだということを改めて知る。ただ、それでも、先程コーティカルテが言ったように、フォロンはコーティカルテの傍にずっといるのだろう、これからもずっと。そう、漠然とフォロンは感じていた。 「……大体、こんなのを神曲と呼ぶのは、私は好かないのだ。いくらなんでも、神曲は言い過ぎだろう。フォロンもそう思わないか? せいぜい、子守唄ぐらいが良いところだろう」 「あはは……」 貴重な話を聞けたのは良かったが、コーティカルテの方の話に熱が入ってしまい、結局フォロンはコーティカルテが満足するまで「あぁ」とか「うん」とか相槌を打つ羽目になったのだった。 辺りは、夕暮れに包まれつつあった。 「ヤツバーン海運?」 電話口の向こうから、野太い男の声が聞こえてくる。あまりに大きい男の声は、受話器から多少耳を離していても聞こえるほどであった。 「えぇ、何か聞いてないかしら?」 ユフィンリーは電話の相手に尋ねる。だが、電話の相手の声は困ったような調子で返してきた。 「う~ん、そんなこと聞かれても私ゃ精霊課ですからなぁ……部署が違うと思うんじゃ?」 「いいじゃない、別に。お互い持ちつ持たれつの関係じゃないの」 ユフィンリーがそう言うと、電話の向こうから豪快な笑い声が響いてきた。ユフィンリーは思わず、受話器を遠ざける。 「ま、たしかに何か後ろめたいものがあるらしいな。実際、小さなことでいくつか被害届が出ていたはずだ」 「それ、本当?」 「あぁ。それに噂を加えるなら、結構な数になるんじゃないのか?」 ユフィンリーは、手元の資料に目を通しながら電話の相手に尋ねた。 「こっちでも、いくつか拾ってみたんだけど……ちょっと信憑性がないわね」 ユフィンリーが溜息をつく。すると、電話の向こうから、くぐもったような笑い声が届いた。その調子に、思わずユフィンリーの眉間に皺が寄る。 「たしかに噂からでは何も得られないだろう……だが、まったく何もないわけではなさそうだ」 「……何か掴んでいるの?」 ユフィンリーが尋ねるが、相手の男はフフフと意味深に笑うだけである。 「さすがに全部は話せないが、私たち精霊課も動いている……と言えば分かるだろう?」 「まさか……っ!?」 精霊課が動いているということは、つまり、精霊が関連している事件に他ならない。たしかに、ヤツバーン海運では精霊を雇用していたはずだが……何か裏があるということだろうか? 素早くそこまで考えを巡らせると、ユフィンリーは電話へと意識を戻した。 「さすがに、そっちのことと関係しているかまでは分からんが……私たちが知っていることはそれぐらいだな」 「そう、ありがとう。助かったわ」 ユフィンリーが礼を言うと、電話の向こうから野太い声が響いてきた。 「気にしなさんな。そちらの事務所には何度もお世話になってますからな」 その言葉に、ユフィンリーは電話で見えないのにもかかわらず微笑んでみせた。そして、静かに受話器を下ろした。 「……いよいよキナ臭くなってきたわね」 手元の資料を弄びながら、ユフィンリーは次の1手を考え始めていた。 「うぅぅぅ~~~、納得いかないっ」 「ペ、ペルセ……いい加減、帰らない?」 さて、フォロンとコーティカルテが楽しげに浜辺を歩いているその後ろ、距離にして100メートルほどだろうか。物陰に隠れるようにして、2人の後を付けている少女がいた。言うまでもない、ペルセルテとプリネシカの双子コンビである。1度は帰ると言ったものの、2人のことが気になったペルセルテが、反対したプリネシカを強引に押し切って尾行していたのだった。 「ううう、コーティカルテさんったらあんなに先輩にくっ付いて……っっ!」 しかし、せっかくのプリネシカの忠告も、ペルセルテの耳には届いていないようである。ペルセルテは、2人の一挙手一投足を全て見逃すまいと全神経を集中していたのだ。何かあれば、すぐにでも駆け出しそうな迫力が、今のペルセルテにはあった。 「ペルセ、そ、そんなに引っ張らないで……!」 と、プリネシカが抗議しても、それがペルセルテに聞こえているとは到底思えなかった。事実、先程からずっと、ペルセルテのプリネシカの手を引っ張る強さは変わることなく一定のままである。おそらく、ペルセルテ自身、自分がプリネシカの手を引いていることなど、完全に頭の中から抜けていたのだろう。今、ペルセルテの頭の中を締めているのは、間違いなくフォロンのことである。もちろん、コーティカルテに関しても、ペルセルテの目には入ってはいるのだろう。だがしかし、それはあくまでもフォロンに関係しているからであり、現在そのフォロンの隣を1人占めしているからであった。 ちなみに、普段なら、すぐにでも2人の間に割り込んでいくペルセルテが、飛び出していかないのには理由があったりする。それは、昼間のことである。 それは、フォロンたちが浜辺についてすぐ――コーティカルテとペルセルテがフォロンの所有権を巡ってビーチバレー対決を始めた時間にまで遡る。時間にしてみれば10分にも満たない時間でしかなかったのにもかかわらず、その対決は周囲の海水浴客を大いに沸かせたのだった。だがしかし、それだけの盛り上がりに対して、その決着は想像以上にあっけないものになったといえる。 「そら……っ!」 コーティカルテが圧倒的優位で進めていた対決は、ペルセルテに逆転の策があるはずもなく、ペルセルテが負けるのも時間の問題となっていた。実際、砂の上での激しい運動は予想以上にペルセルテの体力を奪っていた。その足元は頼りなく、コーティカルテが打ち出すビーチボールに完全に踊らされている状態である。しかし、それでもペルセルテはよく粘った方である。それだけペルセルテの想いが強かったということなのだが、それはコーティカルテにとって苛立たしい事実でもあった。 「あぅ……!?」 コーティカルテの放った一撃を何とか弾き返したペルセルテだったが、それが結果として彼女の首を締めることになった。ただ弾かれただけのボールは、フラフラとコーティカルテの真上へと上がったのだ。それを見越してか、すでにコーティカルテは助走を終えており、軽々と上空へと舞い上がっていた。 「あ……っ!」 それを見たペルセルテは、なんとかそれを迎え撃とうと構えを取ろうとするが、逆に砂に足を取られて体勢を崩してしまう。 「ペルセ……っ」 「っっ……コーティ!」 2人の対決を見守っていたプリネシカとフォロンが、ほぼ同時に声をあげる。しかし、その声が届く頃には、すでにコーティカルテは渾身の力でボールを打ち出していた。誰もが、この勝負の終わりを予感しただろう。そして、次の瞬間にパァンという甲高い破裂音が周囲に響き渡ったのだった。 「きゃ……っ!?」 「なんだっ?」 2人の対決を見ていた観客からどよめきの声があがる。その瞬間に何が起きたのか正確に把握していたのは、おそらく数人だけだっただろう。なぜなら、ほとんどの人がボールの行方を追って周囲に視線を彷徨わせていたからである。 ――ボールが忽然と消えてしまった……ように見えたからである。 そして、今更ながらの滞空を終えて、不満顔のコーティカルテが着地するのと、ペルセルテが――気が抜けたのだろう――地面にドタッと突っ伏したのがほぼ同時であった。若干遅れて、ヒラヒラと何かが落ちてきて、それをコーティカルテが手で受け止める。それは、ビーチボールの成れの果て、つまり空気が抜けた状態になっていたものであった。コーティカルテが不満顔なのは、これが原因である。 「ふんっ、もう少しで決着が付いたというのに……不甲斐ないやつめ」 本当に残念そうにボールに向かって毒づくコーティカルテの脇を通り抜けて、フォロンとプリネシカがペルセルテに駆け寄る。幸い、多少の発汗が見られるだけでペルセルテの意識ははっきりしていた。むしろ、大袈裟に2人から心配されたことでペルセルテは困ったように苦笑いのような顔を――今にも泣き出しそうな顔を――浮かべて、それを見たプリネシカはほっと胸を撫で下ろしたのだった。ただ、そうはいってもすぐには立てるはずもなく、フォロンがペルセルテを負ぶって日陰へと連れて行ったのだった。忌々しそうな目で、コーティカルテがそれを見送りながら。 結局、そのあとフォロンは、ペルセルテに付っきりになったのは言うまでもない。優しいフォロンは、ペルセルテを放って置いて遊ぶことができるはずもなく――プリネシカも気にしなくていいとは言ったものの――、結果として、ペルセルテはフォロンを独占できることとなった。 そして、そのことに対してコーティカルテは何も言わなかった。 たしかにペルセルテは思い立ったら即行動、全速前進が持ち味である。しかし、決して周りを見ないわけではない。結局のところ、ペルセルテが今この時間をコーティカルテに譲っているのは、昼間の出来事における借りを返すためであるのだった。たとえ相手が精霊だろうと何だろうと、ペルセルテの信条はフェアな勝負なのである。だからこそ、すぐにでも飛び出して行きたい衝動を押さえ、その代わりにプリネシカの手を強く握り、あくまでも遠くから2人の様子を見守る――という名目の監視を行っているのだった。 |
ACT2
夏の海、と聞いてそこに泳ぐことを見出す人は意外と少ないのかもしれない。なぜなら、海に遊びに来た人のほとんどは、泳ぐために海に来たわけではないからである。むしろ、泳ぐためというならプールに行くのが普通なのだろう。海で遊ぶのに水着は持ってきても、それは海という場所で遊ぶ以上、濡れても平気な格好でなければならないという条件があるからであり、だからこそ水着にオシャレという機能を与えこそすれ、泳ぐための機能はほとんど必要ないといってもいいだろう。そうして夏の海を眺めてみれば、色とりどりの水着をまとった人が、まるでコンテスト会場に集まっているようにも見ることができる。波打ち際を寄り添って歩くカップルがいて、パラソルの下でサングラスをかけて寝そべる人がいて、簡易式のゴムボートを使って海の上ではしゃぐ子供がいて、海の家で食事をする家族がいて……この海という限定された場において、それこそ数えられないほどの人間模様が繰り広げられているのだった。そんな中にあって、一際目立つグループがあった。 「てやぁぁぁぁ~~~~~っっ!!」 「小娘が、なめるなっ!!」 2人の少女が叫ぶたびに、周囲から歓声が上がる。その歓声を聞いて、偶然そこを通りがかった人も何事だと集まってくるため、そこには小さな人の輪ができつつあった。しかし、白熱した様子の2人は、そのことにまったくといっていいほど気づいていなかった。この状況に気づきながらも、どうすることもできずにただ見守っていたのはフォロンとプリネシカであった。なぜ、こんなことになってしまったのかといえば、時間を少し遡らなければならない。 とりあえず海に来たものの、まずフォロン達は何をするかで悩むことになった。コーティカルテは海で泳ぎたい――もちろんフォロンと一緒に――と主張し、ペルセルテはビーチバレーをしよう――当然フォロンと一緒に――と主張し、プリネシカはさりげなく潮干狩りなんてどうですかと提案した。困ったフォロンは、「それじゃあ、バラバラに行動する?」なんて場の雰囲気を読めない発言をして、コーティカルテとペルセルテに睨まれ、プリネシカにまで冷たい視線を貰う羽目になった。そこで、まずペルセルテが、 「コーティカルテさん、泳ぎたいんでしたら泳いできたらどうです? 私は先輩と遊んでますから」 と口火を切ることをした。当然、それを聞いたコーティカルテは売り言葉に買い言葉で、 「お前こそ、妹と姉妹仲良く遊べばよかろう。なに、私のことは気にしなくてもいい。私にはフォロンがいるからな」 と反論する。あとはもう、フォロンが止める間もなく2人の言い合いは加速するだけであり、ついにはどっちがフォロンと遊ぶのか勝負して決着をつけようということになったのである。そうして、本当にあっという間にペルセルテがビーチボールを取り出すと、コーティカルテも望むところとばかりに構えを取るのだった。心なしか、2人の視線の中間地点に火花が散っているようにも見える。声を掛けるタイミングを完全に逸したフォロンは、ただオロオロするばかりだったし、同様に話に置いてかれた格好のプリネシカも、事の成り行きを見守るくらいのことしかできなかったのだ。かくして、勝負の幕は切って落とされたのである。 「はぁーーーっっ!」 ペルセルテが見事なアタックでビーチボールを打ち下ろす。しかし、ペルセルテの性格ゆえか、そのボールは一直線にコーティカルテに向かって進んでいた。コーティカルテは、そのボールを軽く弾くと、浮き上がったボール目掛けて綺麗な跳躍をする。その瞬間、周囲からおぉというどよめきが巻き起こるが、それも当然のことだろう。コーティカルテの動きは、人間のそれとまったく別次元のものであったからだ。もちろん、精霊であるはずのコーティカルテにとって、それはたいしたことではないのだろう。しかし、周囲から人間に見られていることを、彼女は自覚していなかった。輝かんばかりの夏の日差しをバックに、コーティカルテのシルエットが一瞬浮かび上がると、次の瞬間にはもの凄い勢いでボールが打ち出されていた。 「ふっ――!」 「まだまだっ!!」 しかし、コーティカルテの放ったアタックを、ペルセルテはうまく受け止める。ちなみに、1対1でやっているため、ビーチバレーとしてのルールは完全に無視されていた。では、どうやって勝負の決着をつけるのかといえば、それは見ているフォロンにはまったく分からなかった。コーティカルテは勝負に熱くなっているし、ペルセルテもそこまで考えて勝負をしているとは思えない。ゆえに、この勝負の決着は、見ている人それぞれが勝手に結論付けなければならないという事態に陥っていたのだった。ただ、おそらく多くの人は、ボールを受けられずに落としてしまった方が負けになると思っていたはずである。それが一番分かりやすいし、実際、浜辺でビーチボールを打ち合っている2人の少女は、相手の打ったボールを落とさないようにプレーしていたからである。 「いい加減に、しろぉっ!」 「コーティカルテさん、こそっ!」 ペルセルテの運動神経は、フォロンの知る限り良い方だといえた。それは、フォロン自身の要領が悪く、それほど運動が得意ではないからという贔屓目ではなく、そして、双子の妹であるプリネシカは体が弱く運動は不得手であるからという相対的な比較だけでもなかった。そうはいっても、ペルセルテの運動能力の高さは、あくまでも人間に限って言えばの話である。そんなペルセルテと相対するのは、人間ではなく精霊であった。それも上位精霊と呼ばれる存在であり、その中でも比較にならないほどの能力を備えているコーティカルテ・アパ・ラグランジェスという存在であったのだ。冷静に見れば、この勝負はペルセルテに圧倒的に不利であったといえる。しかしそれでも、ペルセルテがコーティカルテと同等にやりあえているのは、ひとえに彼女のフォロンに対する強い思いがあったからであろう。 「どうした、そろそろ疲れたか?」 しかし、思いだけではどうにもならないことがあった。体力である。 「くぅ……っ」 ペルセルテの動きは、先程から少しずつ鈍くなっているのが傍目にも分かるぐらいになっていた。当然である。たしかに、ペルセルテは運動が得意ではある。しかし、得意というのはあくまでも上手という意味であって、ずば抜けた能力があるという意味ではなかったからだ。つまり、多少運動が得意であっても、ペルセルテは普通の女の子と大して変わらないのである。そもそも、どちらかといえばペルセルテは短距離型なのだ。それにもかかわらず、今までコーティカルテと接戦を繰り広げてこられたのは、ペルセルテの気力が支えている部分が大きかったのである。ただし、そのことに気づいているのは、この中ではプリネシカだけであったのだが。 ――さて、この勝負の行方はどうなることやら。 依頼を受けたレンバルトは、とりあえず事務所にまで戻ってきていた。車をいったん駐車場に止めると、トランクを開けて荷物を引き上げた。それはディパックほどの大きさの金属製の箱であった。箱にはストラップがついており、レンバルトはそれを肩に掛けて箱を背負うような体勢をとった。そして、そのストラップに付随するようについている紐を、レンバルトが軽く引っ張ると、カシャンという音とともに箱が展開し始める。箱の内部に納められていたアームが何本も伸び出し、その先端にはスピーカーであったり、情報表示のためのプロジェクタがついていた。それらが、まるで1つの生き物のように、レンバルトの周囲に配置される。わずか、数秒の出来事であった。レンバルトは、背中に奇妙な寄生虫を背負ったかのようにも見える姿で、駐車場の真ん中に立っていたのだった。 これが単身楽団――1人で神曲を演奏するための装置である。 「さて、と」 レンバルトは主制御用の楽器であるサキソフォンを片方の手で抱えたまま、もう片方の手をポケットに入れる。そこに目的のものを見つけると、それと一緒に手を引き抜いた。手には、1枚の写真が握られていた。それは、先程依頼を受けた家で受け取ったものである。1組の男女が寄り添うようにして写っている写真を、そっと地面に置くと、サックスを握り直して体勢を整える。その次の瞬間、レンバルトはふっと息を吸い込む。それが演奏開始の合図だった。 力強く開放された音は、単身楽団にあらかじめセットされていた封音盤の自動演奏と次々に音の重奏を創り出す。それは次第に唸りとなり、そしてレンバルトはその唸りの流れを壊すことなく、新しい音を紡ぎ続ける。 ――神曲。 最初は、1つの光点がポツッと浮かんだ。次の瞬間に、その光点は数十になり、瞬く間に数百、あるいは数千へと増加する。そして、ただの光点だったものは、やがてあらかじめ定められたかのような姿をとり始める。それは球体状のものに、オマケ程度に1対の羽がついただけである。しかし、それこそがレンバルトの奏でる神曲に呼び寄せられてやってきた精霊――多くはボウライという下級精霊の1種であった。 実体化によって精霊の姿が見えるようになると、レンバルトはサックスを高々と掲げるようにして、そこから音を叩き出す。人であれば、ただの音にしか聞こえないそれも、神曲楽士が思いを込めて演奏することによって、精霊にその思いを伝えることもできるのだった。レンバルトは、地面に置いてある写真に写っている人物と精霊の捜索を、お願いしていたのである。 もともと、こういった精霊を使った捜索作業は、レンバルトの得意分野といえた。なぜなら、レンバルトの神曲のスタイルが、それに適していたからである。レンバルトの神曲は、下級精霊を集めること――それも大量に――に特化していたのである。レンバルトの上司であり、天才と呼ばれたユフィンリーでさえ、彼のように大量の下級精霊を集めることは無理だということを踏まえれば、それは凄いことであるといえた。しかし、その反面問題がないわけでもない。レンバルトの神曲は、下級精霊を引き寄せることはできても、中級以上の精霊を呼び出すことが出来なかったからである。それに対して、レンバルトの同僚であるフォロンは、まったくの正反対の能力を持っているといえた。フォロンは、コーティカルテという強大な力を持つ上級精霊と契約するほどの神曲を奏でることはできる。それは一見凄いことのように思えるかもしれないが、しかし、フォロンはそれだけである。コーティカルテという1体の精霊以外、フォロンはほとんど精霊を呼び出すことはできないのだ。 ――ただし、これには別の理由も絡んでいるのだが。 別に、上級精霊を呼び出せるからといって、下級精霊も呼び出せるとはいえないのが、神曲楽士の不思議であった。ともかく、2人のように奏でる神曲のスタイルの違いによって、集まる精霊も異なるのである。これは精霊にも、神曲に対する嗜好があることを証明していた。それを踏まえれば、レンバルトの神曲は広く浅く、フォロンのそれは狭く深くであるといえるのである。 体を震わせるような音の洪水――しかし、それは決して不快ではない――を吐き出しながら、レンバルトはサックスの演奏にひたすら思いを込める。やがて、溢れるほどだった光点が、1つ、また1つ消えていく。それは、実体化を解いた精霊が目に見えなくなったのである。段々と、光に包まれていたレンバルトの姿が現れるぐらいになり、そして、レンバルトが最後の1音を吹き終えると、そこには数分前と変わらない駐車場があるだけであった。 「ふぅ、と」 レンバルトは、呼吸を整えると展開した単身楽団を元の箱状に戻す。それを車のトランクに仕舞いこむと、地面に置いた写真を拾い上げて再びポケットへと仕舞いこむ。流れるような動作で車に乗り込むと、そのままエンジンをかけ、車を発進させた。 「これで、見つかるといいんだけどなぁ」 ぼやくように呟きながらアクセルを踏み込むと、車は海へと進路を定めてスピードを上げたのだった。 さて、その頃ユフィンリーも事務所の近くまで戻ってきていた。ただそれは、事務所で受けた仕事の依頼人に会うためであったのだが。それは、とある警備会社からの依頼だった。その警備会社に着いたユフィンリーは、すぐに案内されて応接室へと通される。そこには、中年を少し過ぎたぐらいの男性がおり、ユフィンリーは挨拶をして簡単に自己紹介を済ませる。彼は、この警備会社の部長であった。そして、ユフィンリーが話を聞くと、部長は苦虫を噛み潰したような表情で話し始めた。 先日、彼の部下が無断欠勤をしたこと。 部長曰く、それは珍しいことではなく、これまでにも何度か無断欠勤のある社員であったと。 しかし、腕は優秀で、会社も多少のことには目を瞑っていたということ。 一週間ほど前、その社員が連日で無断欠勤をしたということ。 そして、連続4日休んだ挙句、その社員から連絡があったこと。 電話に出た部長がそのことを怒ると、社員は興奮した様子でこう言った、 曰く、とんでもない秘密を手に入れた、と。 それ以来、連絡が取れなくなり、そしてユフィンリーの事務所に白羽の矢が立ったというわけである。 つまり、その行方不明になった1人の警備員の捜索が、依頼の内容というわけであった。 「その、とんでもない秘密、というのは聞いていないのですか?」 「えぇ、私にも何のことだかさっぱり」 ユフィンリーが気になっているのは、その社員が電話で話した秘密についてであった。それも、わざわざとんでもないと言うぐらいの秘密である。気にならないはずがなかった。 「では、その社員が無断欠勤していたとき、何処にいたかは?」 「さぁ、何しろ連絡1つなかったもので……」 無断欠勤なのだから、ある意味それも仕方のない答えといえた。ただ、そのことは捜索する側のユフィンリーにとっては、マイナス要因であったが。ともかく、その社員についての情報を集めないことには、捜索すらできないので、ユフィンリーは矢継ぎ早に質問を繰り返す。 「それじゃあ、無断欠勤する前までの仕事は何処で?」 「えぇと……たしか、海運会社だったと思いますが」 それから部長は、その海運会社との契約の期限が切れた直後から、その社員が無断欠勤を始めたということを話してくれた。そのことに、何かしらの関連性を感じたユフィンリーは、少し詳しく話してくれるように部長に頼んだ。部長は、詳しいことまでは知らないのですが、と前置きをしてから話し始めた。 「割と最近急成長してきた会社らしくて、主に海で採れた原油を運搬することをしているみたいです」 「それで、契約内容は?」 「一応、守秘義務もあるんですがねぇ。……ま、いわゆる船の警護ってやつです」 部長は、内緒ですよ、と口に人差し指を当てて話を続ける。 「急成長したのは、裏で何かやっているからだ……という噂もありまして、それで嫌がらせをする輩も少なくなかったそうです」 つまり、そこでこの警備会社に警備の依頼がやってきたわけである。そして、その仕事に、現在無断欠勤で行方不明の社員が向かったのだ。状況証拠ではあるが、その噂が真実で、そしてその事実を知ってしまった社員は行方不明になってしまったと考えられなくもない。その社員は、何かしらの秘密を知ってしまったと、電話で部長に話したのだから。となると、怪しいのはその海運会社ということになる。とりあえず、何かしらの手がかりを得ることができたユフィンリーは、そこから捜索を始めてみることを決めて立ち上がった。 「それで、その海運会社は?」 「ヤツバーン海運です」 何となく聞き覚えのある会社だと、ユフィンリーは思う。おそらく、どこかで噂でも聞いたのだろう。それだけ、いろんな意味で有名な会社だということでもある。 「お願いします。彼を、エリ・ケイムズを捜してください」 「まっかせなさい」 ユフィンリーは不敵に微笑むと、警備会社を後にした。 夕暮れにはまだ早い時刻。フォロンたちは、浜辺に並んで座って冷えたスイカを頬張っていた。昼過ぎにピークになっていた人の数も、今ではその姿を段々と減らしている。さっきまであんなに賑わっていた砂浜も、急に寂しさを漂わせているのだから、時間というのは残酷である。 ……と感傷に浸っているのはフォロンだけである。 「うむ、美味いな」 フォロンの右隣に腰掛けたコーティカルテが感想を言う。すでに、4等分されたスイカの3分の2ほどを食べてしまったらしく、その形は綺麗な三日月形になっていた。しかも、彼女の場合種を捨てるという選択肢はないらしく、種ごと頬張っているのが彼女らしいといえた。 「はふぅ、運動した後ってどうしてこんなに美味しく感じるんだろう? ね、プリネ?」 「え? ……う~ん、やっぱり疲れているからじゃないかな? ほら、疲れたときには甘いものがいいって言うし」 コーティカルテとは逆、フォロンの左隣に腰掛けたペルセルテが、スイカの甘さに目を細めながら、そのさらに左隣のプリネシカに尋ねれば、彼女は少しの間思案して、そう答えた。答えを聞いたペルセルテは、スイカの種をプププッと飛ばしながら、そっかと納得する。対照的に、プリネシカは種を1つ1つ丁寧に取り除きながら、リスみたいに小さく口を開けて、スイカを頬張っていた。 「今日は、先輩といっぱい遊んだから疲れた~」 「む……っ!」 ペルセルテがそう感想をいえば、それにコーティカルテが素早く反応を示す。プリネシカは、困ったような、しかしどこか笑いを堪えているかのような微妙な表情を浮かべた。フォロンはといえば、アハハと乾いた笑い声をあげるだけである。 「まったく、せっかく海に来たというのに……フォロン、私は物足りないぞ」 コーティカルテが、フォロンに対して非難の声を浴びせる。 「そ、そんなこといっても……仕方ないじゃないか」 「そうですよ、仕方ないですよ」 フォロンが言い訳をすれば、それに同調するようにペルセルテの援護が付け加えられる。しかし、それぐらいでコーティカルテの勢いが止まるわけがない。そのことを察したのか、コーティカルテの不満が吐き出される前にプリネシカがフォローを入れる。 「でもペルセ、ちゃんとフォロン先輩にお礼言わないと駄目だよ?」 「は~い、先輩ありがとー」 プリネシカがたしなめるように言えば、ペルセルテはそれを上手く流しながら適当な返事をする。それでも、その言葉の中にフォロンに対する感謝の気持ちだけはたしかに読み取ることができたのだった。しかし、それを聞いたコーティカルテが文句を言う。 「なんだその言い方はっ、フォロンを馬鹿にしてるのか!?」 「ちょっ、ちょっとコーティ」 「ふーんだ」 「あぁ、もう……」 まさに、水と油とはこのことである。コーティカルテとペルセルテが、――フォロンを巡って――言い争うのは、もはや恒例行事であった。けれど、何度同じ場面に直面しても、フォロンはオロオロするばかりである。進歩がないとは、こういうのをいうのかもしれない。それは、この状態に対して傍観という姿勢を決して崩すことのないプリネシカにも、同様のことがいえた。まぁ、プリネシカの気持ちも、分からなくはないのだが。 「フォロン、こんなうつけ者は放って置こう。そうだ、どうせなら今日はこの辺に泊まって明日は私と2人だけで楽しむのはどうだ?」 「な、なんですって!?」 コーティカルテがフォロンを誘う、というよりは強制するような発言をすれば、ペルセルテが応じないわけにはいけないのだった。 「コーティ、そんなお金は持ってきてないよ……」 フォロンはといえば、律儀にもそう真面目に答えてしまう。しかし、この場合、フォロンの対応は逆効果だったようである。コーティカルテは烈火の如き怒りの視線をフォロンに向けて、フォロンを威嚇したのである。 「うううぅ~~~、フォロンのアンポンタン!!」 「えぇっ、僕のせいなの!?」 ムスっとした表情で、けれど少しの寂しさを瞳に浮かべてコーティカルテは精一杯の抗議をフォロンに行う。それに気づかないフォロンは、ただただ狼狽するだけである。 「そうですよぉ、コーティカルテさんは理不尽すぎます!」 ペルセルテが、フォロンを擁護すべくコーティカルテを非難すれば、 「ペルセ」 さすがにプリネシカが止めに入る。それを聞いて、ペルセルテは「どうして?」という顔でプリネシカを見つめるが、プリネシカの真剣な瞳に思わずたじろいでしまう。 「うぅ、分かったよぉ」 結局、根負けしたペルセルテが弱弱しく降参したのは、当然の成り行きだった。とはいっても、それでおとなしくなるペルセルテではなかったのだが。 「じゃ、プリネ帰ろっか?」 「そうだね」 ただ、さすがにこの場の雰囲気は理解していたので、ペルセルテは本当は上げたくない腰を、嫌々ながらも上げることをした。そんなペルセルテを、プリネシカは内心で褒めながらも、それを口に出すことはしなかった。それは、あとで十分に可愛がってあげれば済むことだったからである。プリネシカは、ペルセルテとは対照的にサッと立ち上がると、状況がよく分かっていないフォロンに対して頭をちょこんと下げた。 「では、私たちはここで失礼します」 「先輩、まったね~」 そうして、更衣室代わりの簡易テントに向かって歩き出そうとする。しかし、それをフォロンが慌てて止めに入る。 「ちょ、ちょっと。帰るなら僕たちも一緒――いてっ!?」 けれど、フォロンの言葉は言い終わる前に邪魔が入って遮られてしまう。フォロンが痛みの発生源である足元を見てみれば、そこには綺麗にコーティカルテがフォロンの足を踏んづけているのが見ることができた。 「コーティ、何のつもり……?」 「つーん」 コーティカルテはちらちらとフォロンの方を覗き見るが、それだけで何も言わない。そして、こういった女性の機微に鈍感なフォロンは、コーティカルテのちょっと不機嫌な理由が分からなかった。そんな2人の様子を見て、ペルセルテは「敗者」の言葉を投げかけた。 「コーティカルテさん、どうぞごゆっくり!」 「はいはい、怒んない怒んない」 そんな悔しそうに唇を突き出したペルセルテを、プリネシカが宥める。そして、今度こそ簡易テントに向かって歩き出したのだった。フォロンは、そんな2人の後姿を見送ることしかできなかった。 |
ACT1
社会人と学生の違いは様々あるが、たとえばそう、夏期休暇に関しても大きな違いがあるといえるだろう。学生の休暇期間は、2ヶ月弱が相場であるのに対し、社会人にはお盆の時期の1週間がせいぜいであるからだ。事実、ツゲ神曲楽士派遣事務所で働くタタラ・フォロンにとって、今年の夏にもらえた休みはたったの4日であった。もともと、神曲楽士という仕事の性質上、1年365日、何らかの仕事はあるものである。ただ、雇用契約として最低限の労働環境を保障する以上、当然の権利としてフォロンにも休みが与えられたに過ぎないのであった。つまり、フォロンが夏期休暇を満喫している間もツゲ神曲楽士派遣事務所では、所長のユフィンリーと、学生時代からの友人であり同僚のレンバルトは、いつもより1人少ない状況で仕事をしているはずであった。そのことに対して、一応は申し訳ないという気持ちを持つフォロンではあったが、久しぶりのまとまった休みを有意義に過ごせると喜んでもいた。いつもなら起きているはずの時間を、ゆっくりとした眠りで過ごせると―――― 「フォロン、朝だぞっ」 ――――思っていたのだった。 「むごっっ!!?」 ただ、そんなフォロンの願いは、少女の声と、直後の衝撃によって脆くも崩れ去ることになったのだが。 「……コーティ」 「朝食の時間だぞ、フォロン」 フォロンが薄く目を開けると、やはりそこには想像通りの光景が広がっていた。流れるように波打つ紅の髪は何度見ても美しく、彼女自身を穢れない高潔さで包み込んでいる。ただ、いつものことながら、フォロンの腹の上に跨って佇むその姿は、傍から見れば少しばかり卑猥な印象を与えてしまうのだが、そんなことを気にする彼女ではない。コーティと呼ばれた少女は、フォロンの腹の上にダイブすることで、文字通り彼を叩き起こしたのであった。 「今日は休みなんだから、もう少し……」 「駄目だ。今すぐだ」 フォロンは、駄目だと知りつつ一縷の望みを込めて聞こうとするが、それは全て言い終わることなく、一言で切り捨てられた。しかし、フォロンにとっては――望まない結果であったとしても――十分予想していた展開であった。フォロンは、未だ腹の上で自分を見下ろす少女に対して、お決まりの台詞を言うだけである。 「分かった。起きるから、コーティどいてくれる?」 「うむ」 少女は満足そうに頷くと、まるで羽でも生えているかのような軽やかさでフワっと宙を舞った。そして、そのままほとんど音を立てることなく、フォロンのベッド脇へと着地をする。もしここに審査員がいれば、間違いなく高得点の羅列を拝むことができるのだろう。そんな、人間離れをした演技をした少女は、事実人間ではない。 世界の創造に関しては諸説がある。ただ、真実かどうかはともかく、多くの人が共通の認識として持っていることがあり、それは、神が世界を創造したということである。精霊――人の善き隣人――は、神によって生み出され、人と同じく世界を構成する1つの要素であった。とはいっても、人と精霊は共同生活を営んでいるわけではなく、普通の場合そこに交流が生まれることはない。それは、人と精霊が交わるのは、ほとんどの場合神曲楽士を介して行われるためであり、逆に言えば、神曲楽士だけが精霊と交渉するための方法を持っているということに他ならなかった。なぜなら、精霊にとって神曲とはいわゆる糧であり、精霊はその糧を報酬とする代わりに人に力を貸すのだ。そして、神曲楽士とは、神曲を奏でることで精霊を使役――フォロンはこの表現が好きではないのだが――することができる人のことであり、毎年数名の神曲楽士しか試験に合格することができないという珍しい存在でもあった。 そして、フォロンがキッチンの方へと向かうのを見つめながら、朝食ができるのを今か今かと待っている少女――コーティカルテ・アパ・ラグランジェスは、精霊の中でも上位精霊と呼ばれる存在であり、フォロンと精霊契約を結んだ存在であった。 「タマゴサンド、だよね?」 「うむ」 もはや慣れた手つきで卵を割り、毎朝毎朝、それこそ例外なく作り続けているタマゴサンドを、今朝もフォロンは作る。そして、椅子に腰掛けたままの体勢で、コーティカルテは都合25回の「できたか?」を繰り返し、フォロンはその度に「まだだよ」と答えたのだった。 そんな、いつもの朝の始まりだった。 ツゲ・ユフィンリーは、ツゲ神曲楽士派遣事務所の所長である。トルバス神曲学院時代から神曲楽士として活躍してきた彼女は、すでに自分の事務所を持つまでになっており、その存在は業界内でも有名なものになっていた。学院時代から天才と呼ばれた彼女の実力は本物であり、事務所の営業スタイルと相まって世間の認知度はかなり高い。そんな事務所は、所長のユフィンリー、社員のレンバルト、フォロン、営業担当のユフィンリーの兄、アルバイトのユギリ姉妹で現在のところやっているのだった。 「……それでは、失礼します」 ユフィンリーは、受話器を置くと軽く溜息をついた。無理もない。この時期はどこの神曲楽士派遣事務所も夏期休暇で休む人が出て、必然的に忙しくなってしまうのだ。事実、ツゲ神曲楽士派遣事務所も、今日からはフォロンが夏期休暇である。ちなみに、昨日まではユフィンリーの兄が、そして、フォロンの後はレンバルトが休みを取ることになっていた。自身の休暇が、さらにその先になるのは仕方がないとしても、ユフィンリーは目の回るような忙しさに、思わず溜息をつきたくなったのだ。今も、仕事の依頼の電話だったのだが、滞っている仕事がある以上、すぐには出来ないという返事をすることしかできないのだった。 「しかも今日から……」 スケジュール表には、今日から4日間のフォロンの休みを示す赤丸の他に、もう1つ別の丸もついていた。それは、アルバイトで事務処理をやってもらっているユギリ姉妹の休みを示す丸であった。アルバイトである以上、彼女たちが休みたいと申請すれば、それは通さなくてはならない。たとえその理由が、フォロンと遊ぶためであったとしても。 『フォロン先輩と同じ日を休みにしてください!』 そう言って休暇の申請をしてきたユギリ姉妹の姉、ユギリ・ペルセルテのことを思い出してユフィンリーは思わず笑ってしまう。その笑みを目ざとく見つけられ、同じくデスクで仕事をしていたレンバルトが声を掛けてくる。 「どうしたんです、所長?」 「いえ。今日から双子ちゃんが休みなのよね、と思って」 それを聞いて、レンバルトも納得したように頷く。そして、ユフィンリーと同じことを思い出したのか、軽い冗談を言う。 「せめて、プリネシカだけでもいてくれればね」 ユギリ姉妹の妹、ユギリ・プリネシカも、やはり姉のペルセルテと同じく休みを取っていた。いや、正確にいうなら休みを取らされたというべきなのかもしれない。ペルセルテが休みを申し込んできたとき、当然のように彼女は妹のプリネシカの分の休みも取ったからである。そのときのプリネシカは、申し訳なさそうに、しかし半ば諦めの表情を浮かべていたことをレンバルトは覚えている。ともかく、結果として今日から4日間、ツゲ神曲楽士派遣事務所は、ユフィンリーとその兄、レンバルトの3人でやるはめになっていた。 「ま、アレは仕方ないでしょ」 「そうですね」 まぁ、ユフィンリーもレンバルトもプリネシカと同様、そのことは仕方のないことだと割り切っていた。もはや、諦めもここまでくると1種の悟りの境地のようである。 「それじゃ、出かけてくるわ」 そう言って、最後の書類を書き終えるとユフィンリーは立ち上がった。これから、神曲楽士としての仕事をするためである。ユフィンリーは車のキーを手に取ると、足早に事務所を出て行ってしまった。残されたレンバルトは、すでに出て行ってしまったユフィンリーに対して軽く返事をして、再び自分の仕事に手を伸ばしたのだった。 ユギリ・プリネシカの朝は早い。それは夏期休暇で、学院が休みとなっても変わることはない。普段であれば、プリネシカが姉のペルセルテを起こすのが日課となっており、今日もそうなるとプリネシカは思っていた。だが、その日は、いつもプリネシカが起きる時間より少し早いタイミングで、彼女は自分の肩を揺すられる感覚で目を覚ますことになったのだ。 「プリネ、プリネ、起きて」 「……ペルセ?」 自分を起こしたのがペルセルテだと認識すると、プリネシカは驚いたように彼女を見つめ返した。一応、枕元にある目覚まし時計を確認してみるが、自分が寝坊をしたわけではないらしい。それはつまり、ペルセルテが自分より早起きをしたということになる。はっきしいって、かなり珍しいことであった。プリネシカは、そんなペルセルテをじっと見つめて、今日は雨でも降るのかななんて失礼なことを思ったりした。 「ほら、もう朝ご飯できてるから」 妹がそんなことを考えているなんて露知らず、ペルセルテは朝食を作るときに身につけたままのエプロン姿でプリネシカを促した。たしかに、ここまでいい匂いが漂ってきている。プリネシカは、そんな姉の様子を不審に思いながらも、ペルセルテの言葉に従うことにした。 朝食を食べ終わってしまえば、あとは暇になってしまう。一応、洗い物やら掃除やら洗濯やらがあるわけだが、しょせんは2人暮らし、慣れた手つきであっという間に終わってしまった。しかも、今日は珍しいこともあるもので、コーティカルテが手伝うということをしたのだった。いつもなら、フォロンをただ眺めているだけのコーティカルテであったが、何故か今日は積極的にフォロンの手伝いを買って出たのだ。そのことに多少の疑問を感じつつも、しかし、深く追求することをフォロンはしなかった。なぜなら、コーティカルテがこのような珍しいことをする場合、それは間違いなくといっていいほどフォロンにお願いをするときだからだ。となれば、このまま待っていればコーティカルテの方からフォロンに話をしに来るはずである。というか、すでにコーティカルテはフォロンの前で口を開こうとしていた。 「どうしたの、コーティ?」 とりあえず、話しやすいようにフォロンから尋ねる。コーティカルテは待ってましたとばかりに、後ろに隠していた――つもりの――雑誌を広げて見せた。 「フォロン、暇だな」 「うん、休暇だしね」 コーティカルテは、当たり障りのない話題から入る。それにフォロンも上手く相槌を打つ。すると、コーティカルテはあらかじめ用意していた台詞を口にした。 「そうだ、せっかくの休暇だし何処かに遊びに行くのも良いではないか? そうだ、たとえばこことか」 そう言って、コーティカルテは広げていた雑誌の1箇所を指で指し示した。たとえば、なんて言いながらコーティカルテの目は真剣である。どうやら、コーティカルテは最初からこれが目的であったらしい。フォロンが、その雑誌を覗き込むとそこには『夏の海で恋人と忘れられない思い出を』というキャッチフレーズが踊っていた。何度も言うが、コーティカルテの目は真剣である。それはもう、獲物を狙う肉食獣のような目をしていた。つまり、最初からフォロンに決定権はなかったということである。 「……それじゃ、行こうか」 「よし、準備はできているぞ」 コーティカルテは、どこに隠していたのか大きな荷物を取り出すと、すぐにフォロンの前に立った。そのあまりの準備のよさに、フォロンは苦笑することしかできない。しかし、コーティカルテを待たせるわけにもいかず、フォロンは急いで準備を整え始めたのだった。 フォロンが準備を終えて、ようやく出発の用意が整うとコーティカルテは待ちかねたとばかりに、家を飛び出した。フォロンもその後に続……こうとして、コーティカルテが玄関先で立ち止まっていることに気づく。心なしか、両肩の辺りがプルプルと震えているようにも見える。どうしたのだろうとフォロンが声を掛けようとしたその矢先に、コーティカルテとは別の声が響いた。 「せんぱぁーい、おはようございます!」 「え、その声って……」 コーティカルテが立ち塞がるようにしてすぐには分からなかったが、しかし、小柄なコーティカルテにすべてを隠すことはできず見慣れた姿がフォロンの視界に入っていた。 「ペルセルテ!? それにプリネシカも!?」 驚きの声をあげるフォロンに、プリネシカはひょこんと頭を下げる。対して、ペルセルテは目標をロックオンするとすかさず行動に移ろうとするが、それはようやく現状を理解したコーティカルテによって阻まれることになる。 「小娘が、朝早くから何のようだ!」 「私は、先輩に用があるんですっ。コーティカルテさんはどいてくださいっ!!」 「生憎だが、フォロンはこれから私と出かけるのだ。話はそのあとにでもしろ!!!」 なんとも朝から迷惑な行為を繰り広げることに、フォロンは思わず頭を抱えたくなった。それはプリネシカも同様らしく、若干引き攣ったような笑みを浮かべている。しかし、そうしていても言い争いはヒートアップするばかりで、一向に沈静の方向へは向かわないのだ。 「ちょっと、コーティ落ち着いて」 「ほら、ペルセも」 フォロンがコーティカルテを、プリネシカがペルセルテを押さえ込む形で強制的に2人を引き離す。2人はまだ何か言い足りない様子ではあったが、しかし、フォロンとプリネシカの言うことに素直に従った。 「ふんっ、それではさっさと用とやらを済ませるがよい」 コーティカルテが一応の譲歩して、尊大な言い方でそれだけを許可する。そんなコーティカルテの態度にフォロンは相変わらず苦い顔をしていたが、ユギリ姉妹が朝から尋ねて来た理由を知りたいことに変わりはないので、2人の顔を交互に見る。 「どうしたの? 僕に用があるみたいだけど……」 「あ、はい……」 「フォロン先輩、どこかにお出かけですか?」 しかし、ペルセルテが答えようとしたのを制して、プリネシカが質問を返す。フォロンは多少面食らったものの、その質問に肯定の意を示す。 「あ、うん。コーティと海に……」 「あたしたちも行きますっ!!」 フォロンが言い終わるより早く、その意味を理解したペルセルテが叫ぶ。さすがに、そのあまりの迫力にフォロンはたじろいでしまうが、ここに物怖じすることなく反論する少女がいた。コーティカルテである。 「だーめーだー、フォロンは私と2人で行くのだ!」 「私は先輩に聞いているんです。コーティカルテさんは黙っていてくださいっ」 そう言われてペルセルテに睨まれてしまえば、フォロンはうっと返事に詰まることしかできない。そんな様子を見て、プリネシカが助け舟を出す。 「フォロン先輩、私たちもご一緒してよろしいでしょうか?」 言っていることは同じだが、プリネシカの方が丁寧な物言いのため与える印象は大分違う。それでもコーティカルテは納得するわけではなく、ぷぅと頬を膨らませて怒りの矛先をフォロンに向ける。 「フォロン、お前は私と2人で行くんだよな?」 やけに2人での部分を強調しながら、コーティカルテはフォロンに尋ねた。しかし、フォロンはそれに答えることなく2人に対して質問を投げかけた。 「2人とも、バイトは?」 「大丈夫です。今日は休みですから」 正確に言うなら、今日から休みなのだがそこに触れることはしなかった。ちなみに、フォロンとコーティカルテは、ユギリ姉妹がフォロンと合わせて休みを取ったことを知らないのである。特に、コーティカルテがそのことを知っていれば、それはもう烈火の如き怒りようで反対したに違いないからである。 「そっか、じゃあ一緒に行こうか」 「なっ、おいフォロンっ!?」 コーティカルテが抗議の声をあげるが、フォロンの方もその提案を変える気はないらしく、コーティカルテをなだめた。 「コーティ」 「う……分かった」 フォロンが言外に、我侭を言うなら海へは行かないと言っているのが分かってしまったため、コーティカルテも渋々頷くだけである。対して、一緒に行くことが許可されたペルセルテは、両手を挙げてその喜びを表現していた。 「わーい、先輩と海~♪」 「すいません、我侭言ってしまって」 さりげなくプリネシカがフォローを入れるが、フォロンは気にしないでと返すだけである。 かくして、フォロン、コーティカルテ、ペルセルテ、プリネシカの4人は海に向かうべく出発をするのだった。 閑静な住宅街の一角、一台の車が徐行していた。運転手は、地図を片手にキョロキョロと辺りを見回している。 「えーと、たしかここらへんだと……」 レンバルトである。ユフィンリーが出かけた数分後、同じく書類を片付けた彼は、依頼のあった家へと出発したのだった。そして、車を走らせること約30分、辺りの風景は事務所のそれとは大分異なるものへと変貌していた。簡単に説明するなら、事務所周辺は人通りも多く賑やかであるのに対し、この辺りは人もまばらで車なんてほとんどすれ違うことはなく、その割に道路はやけに幅広いのが特徴的だった。おまけに、見ただけで高級そうに見える家が、何軒も連なっているのだ。いわゆる、高級住宅街というやつである。商家のお坊ちゃまであるレンバルトにとっても、それはさすがに嫌味に思えるほどのゴージャス振りである。 「お、あそこかな?」 そんな中にあって、見るからに品格があると分かる家がレンバルトの目的地であった。使用人なのだろうか、門前に人が立っているのが見える。そこまで確認してレンバルトがその前に車を止めると、門が開いて使用人らしき人が近付いてきた。 「どうも、ツゲ神曲楽士派遣事務所から参りました」 近付いてきた使用人にそう告げると、使用人は恭しく頭を下げながら口を開いた。 「話は聞いております。どうぞ、車は私が移動しておきますので」 「そうですか? すいません」 レンバルトはそこで車を降りると、代わりに使用人が車に乗り込む。車はすぐに発進し、レンバルトは玄関へ向けて歩き出した。レンバルトが玄関に辿り着くと、突然扉が開いた。あまりのタイミングのよさにレンバルトが驚いていると、玄関の先から1人の婦人が現れたのだった。婦人は軽く一礼して、レンバルトを入るように促した。 「ツゲ神曲楽士派遣事務所から参りました、サイキ・レンバルトです」 「わたしは、レニー・ティーンですわ」 歩きながら自己紹介を済ませると、レンバルトはティーンに案内されて部屋の1つに通された。随分と高級そうなソファーに腰を下ろすと、向かいにティーンも座るのが見えた。そして、そのタイミングで先程とは違う使用人がティーカップとポットをお盆に載せてやってきたのだ。目の前で紅茶が注がれるのを見ながら、レンバルトは感心していた。高級住宅街の中にあって、さらにこの家は別格だったからである。使用人が部屋を出るのを見計らって、レンバルトはそのことを褒めた。 「いや、すばらしい家ですね」 「えぇ、私には勿体無いぐらいです」 その言葉を聞いて、レンバルトは謙遜かと思ったが、しかし、よくよく考えてみればそれは謙遜ではないことに気づいた。これだけの家と、あれだけの使用人を育てるのには、それだけの時間とお金がかかるはずだからである。ここからはレンバルトの推測だが、おそらくティーンの祖父か、それ以上から代々受け継いでいるのだろう。つまり、由緒正しき家系というやつである。 「さて、仕事の方に移らせてもらってよろしいでしょうか?」 本来ならばもう少し世間話をしたりするのだが、レンバルトは手早く話を切り出した。理由は2つある。1つは、今がとても忙しい状況であるということ。そして、もう1つ――こちらが重要なのだが――依頼内容が、とても深刻なものであるためである。なので、レンバルトとしても、それだけ真剣さを見せなければならないのであった。 「どうぞ」 ティーンが頷いたのを確認して、レンバルトはまず鞄から書類一式を取り出して、それを手渡す。神曲楽士として仕事をする以上、こういった手続きを無視することはできないからである。その書類にティーンが目を通し終わるのを待って、レンバルトは再び口を開く。 「それでは、まず依頼内容をもう一度お願いします」 「はい……」 そう言って沈痛の表情を浮かべるティーンは、一枚の写真を取り出してレンバルトに見せた。そこには子供っぽさを残した表情で笑う1人の男性と、その男性の寄り添うようにして微笑む1人の女性が写っていた。 「これが?」 「はい。わたしの兄――エヴァンスと、兄と精霊契約をしたセレンです」 写真に写る女性、その背には精霊だということを証明する羽が2対確認できた。 「それで、いつから?」 「本当なら、3日前には帰ってくるはずでしたが……まったく連絡が」 そこまで聞いて、レンバルトはいったん考え込む。依頼内容は、写真に写る2人の捜索であった。5日ほど前に出かけていったきり、連絡が取れなくなってしまったらしい。ただ、エヴァンスも神曲楽士であり、セレンという精霊もついていることがレンバルトを悩ませていた。甘い考えかもしれないが、それでも精霊がいる以上、余程のことがない限り2人に何かあったとは考えにくかったからだ。 「……今までに、こんなことは?」 1つ確認するように、レンバルトは質問する。 「いえ……もし何かあれば連絡は必ずありました」 「となると……」 レンバルトは、できれば当たってほしくない予想をしなければならなかった。それは即ち、2人の身に余程のことがあったということである。 「2人の行き先は?」 「おそらく海だと……」 すばやく、レンバルトは頭の中に描いた地図で海までの道を検索する。それはつまり、2人も同じようにして通ったと思われる道でもあった。 「海で間違いない?」 「えぇ。兄が出かける前日に電話で船を用意してしてくれるように頼んでいたのを聞きましたから」 それなら行き先は海で間違いないなとレンバルトは納得した。そして、手元にあった写真を掴んで立ち上がった。 「この写真はお借りしてよろしいでしょうか?」 「構いませんわ」 ティーンがそう言って立ち上がると、レンバルトは軽く一礼して言葉を継いだ。 「それでは、たしかにこの依頼お受けしました」 「よろしくお願いします」 ティーンもレンバルトと同じようにして頭を下げる。そして、ティーンと玄関前で別れると、すでに車がレンバルトを待っていた。最初に会った使用人も、その脇に立っている。レンバルトは「ご苦労様」と言ってその労をねぎらって、車に乗り込む。使用人によって開かれた門を潜り抜けると、レンバルトはまず来た道を戻り始めたのだった。 トルバス市外へとバイクを走らせて、フォロン一行が海へとついたのは昼前であった。ちなみに、なぜバイクだったのかといえば、単にフォロンが自動二輪の免許しか持っていなかったからであり、ペルセルテも自動二輪の免許を持っていたからであった。それはともかく、バイクを駐車場に止めると、フォロン達は真っ直ぐに海へと向かったのだった。浜辺に設置された簡易テントの前で一旦別れて、水着を着てからもう一度集合である。 そんなフォロン達がやってきた海は、夏真っ盛りということもありかなりの人で混雑していた。すでに、浜辺には何本ものパラソルが立てられており、はしゃぎ声が少し離れた場所にあるこの簡易テントにまで響いている。そんな光景を背にして、さっさと着替えを済ませてしまったフォロンはコーティカルテたちが出てくるのを待っていたのだった。日差しがジリジリと肌を焦がすのを感じながら、それでもフォロンはじっと待つことしかできない。そして、しばらくして何度目かの簡易テント入口が開くのにフォロンが目を向ければ、そこには見知った顔の、新鮮な光景が広がっていた。 「先輩、お待たせしましたっ!」 いつものツインテールは変わらないものの、その輝くような金髪は太陽の光に反射してペルセルテ自身を照らしているかのようである。そして、そんな彼女の雰囲気に合わせるような白色のビキニは、ペルセルテの持つ快活な雰囲気を一層高めるのに一役買っていた。 「すいません、お待たせして」 普段はストレートの銀髪をお団子でまとめてあげた姿は、大人っぽい雰囲気を持つプリネシカに妖艶さを付け加えたような印象である。さらに、ペルセルテと色違いの黒色のビキニは、プリネシカをぐっと大人の女性へと変貌させていた。そして…… 「ど、どうだ? フォロン?」 緩やかなウェーブがかった真紅の髪をポニーテールにして、それに合わせるようにした赤色のセパレートタイプの水着を着たコーティカルテがフォロンに尋ねてくる。その頬が若干朱に染まっているのは、暑さのせいではないだろう。そもそも、精霊にとって暑さ寒さの感覚はあってないようなものなのだから。 「うん、似合ってるよ。みんな」 最後の台詞が余計であることに気づかないまま、フォロンは素直に感想を述べる。こうした素直な表現ができることはフォロンの良い点ではあったが、逆にそれがフォロンは鈍感であるといわれる所以でもあった。事実、それを聞いたコーティカルテの表情はやや不満のそれへと変わっていた。 「えへへ、先輩に似合ってるって言われちゃった♪」 ペルセルテはといえば、フォロンにほめられたことが嬉しかったらしく、プリネシカの前でクルッと一回転してみせる。 「よかったね、ペルセ」 プリネシカは彼女らしく、辺りをチラチラと見ながら恥ずかしそうに俯き加減で姉の様子を見ていた。やはり、さっきから周囲の人の視線を集めていることに気づいているらしい。 「フォロン、行くぞ」 どうやら感情の整理をつけたらしいコーティカルテが、我先にとフォロンの腕を取って海へと歩き始める。そして、それを見たペルセルテが負けてたまるかという勢いで、コーティカルテとは逆の腕を取った。プリネシカは、そんな3人の後ろにピッタリ寄り添うようについてきている。 「こらぁ、お前はフォロンから離れろ!」 「いーやーでーすー、先輩はみんなのものなんですっ」 「あははは……」 着ているのが水着であるという違いはあれど、数年前とまったく変わらないやりとりがそこにはあった。フォロンがまだトルバス神曲学院に通っていた頃、この光景は毎朝のように繰り広げられたものであったのだ。ふいに、時間が戻ったかのような感覚を感じ、フォロンは足を止めそうになる。しかし、両腕を引っ張って進むコーティカルテとペルセルテが、後ろから優しく押してくれるかのようなプリネシカが、フォロンを前へと進ませていた。そのことに気づいて、フォロンは引っ張られるだけだった腕を、逆に引っ張るかのように歩く速度を少しだけあげた。そこに、言葉にできない感謝の気持ちを込めて。 ユフィンリーが仕事を一件片付けると、すでに時刻はお昼を少し過ぎていた。午後から、もう一件仕事の依頼があったのだが、それにはまだ時間の余裕がある。そのことを確認すると、ユフィンリーは昼食を取るために近くで食事ができる場所を探し始めた。 「しっかし、この辺は食事できる場所もないわけ?」 探し始めて数分、ユフィンリーは早くも愚痴をこぼす。しかし、彼女の愚痴も分からなくもない。実際、ユフィンリーがいる場所はいわゆる工業団地という場所であり、油と騒音と汚れた空気で満たされているような場所であったのだ。そんな場所をウロウロと彷徨っても、見かけるのはせいぜい自動販売機ぐらいであった。 「……が届かないってどういうことですかっ!」 当てもなく彷徨うことを諦め、場所を聞いたほうが早いと決めたユフィンリーは近くにあった会社に入ろうとして、その怒鳴り声を聞いたのだった。別に盗聴する気があったわけではないのだが、しかし、ユフィンリーは壁に耳を押し付け聞き耳を立てることにした。 「じゃあ、なんで船は着かないんですか!?」 その怒鳴り声は聞き耳を立てるまでもなく辺りに響いていたが、ユフィンリーは構わず話の続きを聞いた。それをまとめると、どうやら、この会社は船に積んである何かを待っているらしいのだが、それが着かなくて困っているようだった。 「……調査中って、昨日も同じことを言っていたじゃないですか!」 話を聞くうちに、ユフィンリーは段々とその話に興味を持ち始めていた。積荷が何であるにせよ、それが着かないというのはそれなりの事件である。しかし、ユフィンリーはここ数日、そういった事件の話を聞いた覚えがなかったのだ。それにもかかわらず、現在も調査中で、船が行方知れずというのは、ユフィンリーにとってみれば酷く不自然な話であったのだ。 「はぁ、はぁ……それでは失礼します」 ユフィンリーが考えを巡らすうちに、どうやら向こうの話も終わったらしく、受話器を置く音とともに盛大な溜息の声が聞こえてきた。それを確認して、ユフィンリーは当初の目的を果たすべく、その会社――工場内へと入っていった。すぐに中年の男性がユフィンリーの視界に入るが、向こうはまだこっちに気づいていない様子である。 「すいません、ちょっとよろしいでしょうか?」 「え? あぁ、すいません。なんでしょうか?」 ユフィンリーが声を掛けると、中年の男性も気づいたらしく丁寧な対応で応じてくれる。 「ちょっと聞きたいのですけど、この辺に食事ができる場所ってあります?」 「食事ですか? それでしたら、そこを出て大通りを南下すれば何軒か見つかるはずですよ」 さすがに、中年の男性はユフィンリーの前で落ち込む様子を見せなかった。笑顔でユフィンリーの質問に答えてくれる。 「そうですか、ありがとうございます。……ところで、ここは何をしているんですか?」 そこで、さりげなくユフィンリーは仕事の内容について尋ねてみる。 「あぁ、ここは製油所なんだよ」 「製油所……何か大変そうですね?」 本当は、どんな仕事なのか知っていたのだが、あえてユフィンリーは知らない風を装った。 「大変……か、まぁ、楽じゃないのは確かですよ」 そういって笑う中年の男性は、しかし、輝いているように見えた、おそらく仕事に生きがいを感じているのだろう。 「随分人が少ないみたいですが……今日はお休みですか?」 ズバリ尋ねると、中年の男性は肩をすくめて説明してくれた。 「ははっ、お嬢ちゃんには敵わないなぁ。ま、開店休業ってやつさ」 「どうして……?」 「いいかい? 製油所っても、肝心の油がなきゃ作業ができないのさ」 あと一押しだ。そうユフィンリーは感じた。 「油がない?」 「ん、あぁ。お嬢ちゃんに言ってもしょうがないけどさ。油を仕入れてくれる会社が、それをしてくれないのさ」 これでさっきの話と意味が繋がったとユフィンリーは納得した。 「すいませんいろいろ聞いちゃって……どうも、ありがとうございました」 ユフィンリーは礼をして、その場から立ち去る。そして、さてこの事をどうするべきかと素早く考え始めたのだった。 |
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