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プロローグ
彼女に喜んでほしい。それだけが願いだった。彼女が喜んでくれることなら、それこそいろいろなことをした。美味しいお店があると聞けば、彼女をそこへ連れて行った。綺麗な景色が見られると知れば、彼女と一緒に山も登った。音楽が聴きたいと言われれば、男にできる唯一のヴァイオリンの腕前を披露した。そして、彼女はいつも喜んで、そして微笑んでくれた。 ヴルルルルル……と低くエンジンの音が響く。それは、静かに打ち寄せる波の音を一瞬だけ掻き消してしまう。辺りは、まだ夜の闇に包まれており、人影は見えない。昼間であれば、それなりの人で賑わう場所ではあったが、時間が時間なだけに、好き好んでこのような船着場にやってくる者はいなかった。そんな船着場に係留されていた一隻のボートの中から、男の声が聞こえてきた。 「セレン、出発するよ」 転落防止用の柵に寄りかかるようにして海を眺めていた女性――セレンが振り返った。辺りは暗く、その表情さえ読み取ることはできない。けれど、セレンは男の方をしっかりと見つめて、そして微笑んでいた。 「えぇ」 そうして、セレンは男の方へと歩を進める。暗闇の中段々と浮かび上がる輪郭に寄り添うように、セレンは自身の体を預けた。まるで、それが定位置かのような自然な動きで、男はセレンを受け止めた。と同時に、ブレーキを開放し、ボートを発進させる。小気味よい音を立てながら、ボートは波の中を進み始めた。 「ねぇ、エヴァンス?」 包まれた暖かさを感じながら、セレンは傍らの男――エヴァンスに尋ねた。エヴァンスは闇を見つめながら答える。 「なんだい?」 セレンは待ちきれないといった様子で、エヴァンスに向かって質問を投げつけた。 「今日は、どこに連れてってくれるの?」 もっとも、この質問は今日に始まったことではなかった。セレンは、エヴァンスが彼女をどこかに連れて行くたびに、この質問を繰り返し、そしてエヴァンスも同じように答えていた。 「秘密。着いてからのお楽しみさ」 その、いつものやり取りに、セレンは軽く唇を尖らして抗議する 「ちぇ、エヴァンスの意地悪」 しかし、そう言うセレンの頬は上気して朱に染まっている。セレンは、そうして2人で出かけることを楽しみにしていた。 まだ、夜の闇は深く、船着場から2人を乗せたボートはすぐに見えなくなってしまう。ただ、誰もいない船着場へと打ち寄せた波が、小さく波飛沫を上げていた。 PR |
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